上里町 (かみさとまち) は、埼玉県の北部に位置し、児玉郡に属する町。人口は約3万人。
埼玉県の最北端の町で、東京都から85キロメートル圏内に位置し、神流川、烏川を挟み群馬県との県境を有する。町の南東部には大規模な工業団地がある。
全国的に見ても寒暖の差が少なく、降水量もそれほど多くない。冬から春先にかけては、冷たく乾燥した風が強いため、散在する農家は北西側に屋敷林を設け、風を防いでいる。屋敷林は、カシやケヤキ等により構成されており、重要な景観要素になっている。
上里町の旗は、紫色地に白抜きで町章が描かれている。町章には「上」を4つ用い、それら4つが円になっている。「上」は上里町の上、そして地図上で埼玉県の最も「上」に位置することから用いられた。また、4つの「上」は、上里町が七本木村、神保原村、長幡村、賀美村の4つの村の合併によりできたものであるということであり、それらで作っている形「円」には、人の和と円満という意味が込められている。
町の木は八重椿、花はサルビアである。(昭和52年に町民の方から募集、決定。)
昭和28年〜昭和31年に、昭和の大合併が起き、戦後の新憲法のもと地方自治の確立を目指し、消防や社会福祉、保健衛生などの事業が住民に最も身近なものとなるように、国の主導により全国一斉に行われた。1954年(昭和29年)に児玉郡の神保原村(じんぼはら)、賀美村(かみ)、七本木村(しちほんぎ)、長幡村(ながはた)の4ヶ村が合併して成立した上里村から、1971年(昭和46年)に町制へ移行した。「上里」の名は、県内で一番上(北)に位置していること、円満な農村であること、簡単に書き易いなどがあった。
上里村の合併当時の人口は、16,979人であった。
上里のアクセントについては、「平板型」の「かみさと」のようにして読まれることが多いが、正しくは「尾高型」の「かみさと」のように語尾が下がる言い回しとなる。
上里町長は、山下博一。
神流川、烏川を挟み、群馬県と県境にあり、北の玄関口と言われており、山間地がなく、町内全域平地である。古くは、三国街道の起点となる交通の要所であった。神流川は、水の綺麗な川で知られており、特別栽培米「かんな清流米」の名前にも使われている。
町の中心には、JR高崎線 神保原駅があり、その利便性から急速な都市化が進み、ベッドタウン化や大型店舗などが進出している。
町の東西を上越新幹線、関越自動車道が走り、北西部には上里サービスエリア、上里スマートインターチェンジがある。上里サービスエリア周辺では、上毛3山(赤城・榛名・妙義)と浅間山が眺められる景勝地でもある。
また、種子小麦の主産地で知られ、県内外に出荷されている。
出典:
毘沙吐は、神流川と烏川の合流地点の南側に位置する、埼玉県の最北端の人口ゼロの大字。群馬県の高崎市と玉村町に接した地域。弘化3年(1846年)の神流川・烏川の大洪水によって、村のほとんどが流失してしまい、対岸の新町へ移転して今は誰も住んでいない人口ゼロの大字となっている。毘沙吐に行く場合は、高崎市を経由しなければならない。
毘沙吐の地名の由来は、村の神社で行われる春の農村行事で、弓で的を射てその年の豊凶を占う「御歩射(おびしゃ)」と、それを行う場所を示す「処(と)」を合わせた地名といわれている。また、金窪城の北に位置していて、北の守護神である毘沙門天がここに祀られていたからという説もある。
江戸時代の毘沙吐村は、幕府の直轄領で、60軒程の家があり、村内に三国道の渡船場や藤ノ木河岸があった。神流川・烏川を利用して舟で貨物を運んだり交通したりする舟運や漁業が盛んで、毎年鮎1200匹・鮭42本を献上していた。
天正10年6月2日の「本能寺の変」で、織田信長が明智光秀によって殺害されたことにより、武蔵国(埼玉県)を領地とする北条と、上野国(群馬県)を領地とする織田との関係が険悪になった。6月18日・19日の両日に、鉢形城主(寄居町)北条氏邦・小田原城主(神奈川県)北条氏直の連合軍と、織田信長の家臣である滝川一益・上野国衆(群馬県の武将)の連合軍との間で、当時「ひさいと原」と呼ばれた毘沙吐周辺で、激しい戦が行われた。これを「神流川合戦」と呼ばれている。このとき滝川一益に攻められて金窪城が消失したといわれている。対岸の新町には「神流川古戦場之碑」があり、合戦の様子が書かれている。ほかにも、上里中学校と上里北中学校の校歌を作詞した「風と光の詩人」宮澤章二が「消えてしまった村-毘沙吐」として一編の詩を読んでいる。
1883年(明治16年)12月に東京・上野と群馬・新町を結ぶ日本鉄道(現在のJR高崎線)が開通。1897年(明治30年)5月に停車場建設の工事が開始された。停車場の用地などは各市町村、地元有志からの寄付金を募って集め、日本鉄道と交渉し、11月に神保原停車場(現在の神保原駅)が開業した。明治43年の神保原駅の時刻表には、上下9便のみであった。当時は、5、6両連結で蒸気機関車で運転していたため、上里町大光寺裏の急な坂道を登りきれず、後戻りして勢いをつけて上がることもあった。
神保原駅の駅名の由来は、地元の神保原村から付けられている。(神保原村は、石神村、忍保村、八丁河原村からそれぞれ付けられた。)駅ができたことにより、上里町の近代化が始まった。
また、当町は2021年で町制50周年を迎えた。ホームページでは、町制施行50周年記念サイトが作られた。
上里町と株式会社西武ライオンズは2021年4月9日(金)、西武ライオンズの地域コミュニティ活動「L-FRIENDS(エルフレンズ)」の活動の一環である「連携協力に関する基本協定」を締結した。
2022年6月2日、上里町や北関東付近で大量の降雹が発生した。七本木小学校では、窓ガラスが40枚以上割れるなどの大きな被害となった。(上里・北関東集中雹害)
当町では、ウニクス上里をはじめ、上里町役場など、比較的屋内の撮影が多い。
上里町都市計画マスタープランのひとつの課題である、神保原駅周辺について、「神保原町地区 駅北まちづくり事業 発起人会」の「第1回発起人会」が、令和2年9月30日に発足し、神保原駅北口周辺地区の再開発について魅力あるまちづくり・コンパクトな都市づくりへの転換を目指している。
また、学校法人移転について、神保原駅周辺の徒歩5〜10分、10.000坪以上の土地に、高等学校側の希望条件に基づき、候補地の選定を勧めている状況である。上里町長は、「駅近に高等学校の移転計画が実現できれば、毎日、先生や生徒など併せて1000人くらいが駅を利用することになる。」と話しており、それに併せ、駅舎を橋上化し南口からも利用しやすい駅にしていきたいと述べている。
上里町を通る、関越自動車道は、町内に上里サービスエリアが位置し、1日約20,000人の利用者があり、上里町はサービスエリア周辺を環境拠点と位置づけ、 地元農家を中心にした研究会活動と平行して、地域情報・物産センターや商業・飲食集積施設等の導入が考えられるハイウェイフロントゾーンについて、土地改良事業によって生み出される非農用地の有効活用を軸に、平成5年より都市計画が進められてきた。
平成23年からは具体的にこの地域資源である上里サービスエリアを地域振興に活用し、上里サービスエリアが持ち合わせたポテンシャルを最大限活用し更なる地域振興を図ることを目的に、関越自動車道上り線側に産業団地や農村活性化施設(物産館、農産物直売所等)、下り線側を産業団地とし、関越自動車道との連結接続方法として上下線にそれぞれスマートICを整備する「上里サービスエリア周辺地区整備事業」に着手してきた。
平成25年より周辺地区産業団地の分譲を開始し、平成28年3月には全5区画が完売となり、今日では下り線側の一部と上り線側の全区画において民間事業者が操業を開始している。
平成27年12月20日には、上里スマートインターチェンジが開通し、平成29年11月には、農村活性化施設である農村公園「アグリパーク上里」が民間資金の活用によって整備、オープンし、今後更に発展が期待される地区となっている。
市外局番は町内全域が「0495」。同一市外局番の本庄市、美里町、神川町(市外局番0274の地区を除く)との通話は市内通話料金で利用可能(本庄MA)。収容局は上里局のみ。
郵便番号は町内全域が「369-03xx」(上里郵便局担当)である。
タクシーの営業区域は県北交通圏で、熊谷市・深谷市・本庄市・行田市・加須市・羽生市などと同じである。
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