山田 康雄(やまだ やすお、1932年〈昭和7年〉9月10日 - 1995年〈平成7年〉3月19日)は、日本の俳優、声優、司会者。テアトル・エコーに所属していた。長男は演芸作家の山田浩康。
代表作に、ルパン三世の声(初代)や、クリント・イーストウッド、ジャン・ポール・ベルモンドの吹き替えがある。
東京府東京市大森区(現:東京都大田区)南雪谷に生まれる。役人の家系であり、父親は日本銀行に勤務していたが3歳の頃に死別している。小学生時は第二次世界大戦の影響で、静岡県の畑毛温泉に集団疎開した。
1945年、東京都立第一中学校に進学。新学制度のため途中で東京都立日比谷高等学校となり、卒業まで5年間在籍する。在学中は野球部に所属し熱中する一方で、授業をサボってまで映画館に通うほど映画も好んでいた。そんなある日、コメディ映画『虹を掴む男』でのダニー・ケイのコミカルな演技にひかれ、「人を楽しませるようなコメディを演じられる喜劇役者になりたい」という憧れを抱いた。
大学受験の際、本人曰く「六大学野球内でレベルが低く、唯一レギュラーを取れそうな大学」として、東京大学を受験するも失敗。ただし、卒業時の成績は71位だったということであり、あながち無謀な挑戦というわけでもなかった。
早稲田大学第一文学部英文科入学後に、学生劇団である自由舞台に入団。役者としての一歩を踏み出した。
1953年、難関とされる劇団民藝の試験に合格。大学を中退し、研究生として入団する。しかし、自分のやりたいコメディができず厳しい基礎練習ばかりの毎日に耐えられず1年で退団、フリーとなる。ちなみに入団中は、稽古に参加せずサボってばかりいたため「サボリーマン」という二つ名が付く一方、劇団内のアマチュア野球の試合だけはきっちり出ていたという。
フリー転身後はすることがなくて困っていたが、大学時代の先輩から誘いを受けたことで小規模の演劇グループに加入し、ラジオやテレビに出演するようになる。1958年3月、それまで何度か共演していた熊倉一雄に誘われ劇団テアトル・エコーに入団、8月に『男の中の男』の広口役で初舞台を踏んだ。
同年、海外ドラマ『ヒッチコック劇場』の「オレゴンの靴」という回で主演である犯人役の吹き替えを依頼される。しかし、浅いキャリアで舞台の主役どころをすぐにつかんでいた山田は慢心して収録に臨んだ結果、リハーサル中に5・6回のNGを出してしまい、最終的にその役を降板させられる。監督からは「主役なのに普通のチンピラのよう」「君の芝居は吹き替えに合わない」と演技面で酷評され、山田はこの時、悔しい思いをすると同時に今までの自分の考えは非常に甘かったと反省。その日からは心機一転し、原点に戻って芝居の稽古を続けた。
1959年、海外ドラマ『ローハイド』においてクリント・イーストウッド演じるロディの吹き替えにオーディションで
テアトル・エコーでは看板俳優として活躍。特に、1969年以降は『日本人のへそ』『表裏源内蛙合戦』など井上ひさしによる多数の書き下ろし作品で主役や準主役を多くつとめた。トレードマークとなった独特の髪型は、井上の『11匹のネコ』初演のためのもので、以後そのままになったという。
吹き替えでは、クリント・イーストウッドの他にジャン=ポール・ベルモンドも担当。アニメでは、1971年にルパン三世役に起用されて以降、亡くなるまで約23年半演じる代表作となり、自身のライフワークとなった。また、『お笑いスター誕生!!』の司会などテレビタレントとしても活躍していた。
1980年代からはテレビタレントやナレーターとしての仕事が増加し、ナレーション以外の声優業は持ち役の再演や単発のものが多くなる。アニメ出演に関しては、ルパンのイメージが定着してオファーが減少したことを機に、本人も「アニメはルパンだけ」と決めていたといい、新規のオファーは基本的に辞退するようになったという。舞台活動は1978年の『ホーム・ドラマ』から離れており、後年には復帰意欲をみせたものの、結果的にこれが最後の出演となった(声の出演を含めると、1984年の『サンシャイン・ボーイズ』が最後であった)。
1993年、低カリウム血症により歩行困難になったため一時入院する。この頃から体調が悪化し、収録は椅子に座って行うことが増えた。また、自身の死期を悟っているような言動をとることがあった(後述)ほか、便箋に「ハヤイ ハナシガ イショ(早い話が遺書)」と家族へ感謝を述べた文章を綴り、自宅の机にしまったりしていた。
1995年2月17日午後3時30分、脳出血のため自宅で倒れ、東京都立荏原病院に搬送される。意識不明の入院状態が続き、医師は「予断を許さない」と診断。家族は毎日看病に通い詰めたが、3月18日夜に引き揚げた後に容体が急変、3月19日午前6時35分死去。62歳没。
山田の死を受け、3月20日には日本テレビは朝のワイド番組の内容を変更して『追悼特別企画 ルパン三世の山田康雄さん逝く』を放送。3月31日には追悼企画として『ルパン三世 バイバイ・リバティー・危機一発!』を再放送した。そのほか、NHKを含む各局も朝のニュース番組などで追悼特集が組まれたが、同日に地下鉄サリン事件が発生。すぐにそちらを報道する編成に変更されたため、その訃報が大きく報じられることはなかった。
葬儀・告別式は3月23日に執り行われ、遺骨は多磨霊園に納められた。5月30日にはテアトル・エコー劇場で「山田康雄をしのぶ会」が行われた。
声種はハイバリトン。
声質について、過去には専門家から悪声と評されており、自身も「チンチクリンな声、常にフィルターのかかってるような声」と評していた。そのため、声優としては「多少リズミカルで歯切れがよく、ほんの少し爽やかさがある」部分をセールスポイントにしていたという。
演じる役柄は大きく二分すると、陰影のある異常性格の役、ひょうひょうとしてとぼけた役が多かった。また、生粋の東京人である本人の性格も相まって、アウトローなどしゃれた一面を持つ個人主義者の役も得意としていたという。
生前に「笑いとばして しゃれのめして 生きたいね。」という言葉を残している。
明るく陽気な性格で、日頃からジョークや皮肉を飛ばしては相手を笑わせていたという。その反面、本業である役者や声優業に携わる同業者に対しては自他共に認めるほど厳格であった(後述)。
しかし、相手をその場で叱責する事はあっても、個人の価値観や嗜好に直接干渉することは避け、自身も努力を他人に悟らせることを良しとなかったという。死後の追悼本では「水面下では必死で水をかきながら、見かけは優雅に水上をすべる白鳥の美学」だと評されている。
その一方、シャイで生真面目な一面もあり、バラエティ番組や雑誌などのインタビューでは、はにかみながらも芸や仕事に対する自身の持論や一家言を忌憚なく述べる様子が見受けられた。
彼の神経質な性格を表す逸話として、長らく共演した小林清志は、吹き替えの現場で初めて山田と会った際、出番の直前になると必ずマイクが拾わない程度のせき払いを繰り返す山田を見たことから、第一印象は「神経質な青年」だったと後に語っている。
上記の通り、物事に対して斜に構える面があった一方で、いざと言う時に見せる優しさや細やかな心遣いは一流であったという。
趣味は野球とゴルフ。野球では、高校時代に城南地区代表として選手権に出場した他、1953年から鶴田浩二主催のチーム「鶴田ヤンガーズ」で活躍。東京都の軟式大会で優勝し、国体にも出場している。ゴルフは、1976年頃に戸部信一の勧めで始めたのがきっかけで、病魔に倒れる直前の晩年まで熱中していた。
またアメリカンフットボールの観戦も好きで、相手の「こう来るだろう」と思う裏をかいて読み合い、まさかと思った所へボールを入れる様子が、役者が芝居で観客を錯覚させる感覚と似ているため面白かったという。
特技はジャズピアノ。ナット・キング・コールの「トゥー・ヤング」等の洋楽を弾いていたという。また、もう一つの特技として英語に堪能であり、海外に住む親しい友人も多かった。
姉がいた。1965年に結婚し、一男一女をもうけている。
好きな言葉は強いて言えば「自由」と挙げていた。
自由に生きたいため「信念を持たないこと」が自身のモットーで、「そんなにいつまで生きられるかわかんないのにさ。信念なんか持ってて、大上段に振りかぶるなんてのはだいっきらいなんだ」と発言している。
将来は「不良老年」になりたいとよく言っており、老いても父兄のようにならず、いつも男女の危険をはらんだ感じで若い女性と手をつないで歩くのが夢だと語っている。一方で「結局はあしながおじさんで終わったりしてね」とも語っていた。
自己主張の強い性格であった。これについて「オレだってガキじゃないんだ。ファンの人に喜ばれるような優等生的発言ぐらいできるさ。でもそればっかりしていたら息苦しくなって、結局はオレ自身がつぶれちゃうんだ」「世の中って、いろんな考え方の人が集まって成り立ってるんだ。それでいいんだよナ。全員が同じ考え方になったら危険だ。ファッショへの行進がはじまる」という考えから「オレはヒトサマがどんな考え方をしようが干渉はしない。それが自分の自由を守るための絶対条件だからだ」と述べている。なおこの性格について、小林清志は後に「『お笑いスター誕生!!』で司会を務めて、山田を慕う人物が増えた頃から顕著になった」としている。
演じる作品のジャンルは、所属するテアトル・エコーの特色でもある喜劇を好んでいた。本人曰く「何の足しにもならないバカバカしいことを一生懸命やるってのがたまらなく好きなんだよナ」とのこと。
本人曰く「働くのは嫌い」で、役者を目指したのも「朝寝坊ができると思ったから」という。また、「やりたくない物は無理をしてやることはない」という考えを持っていたため、そのような仕事は(生活に困らない限り)基本的に断っていた。
小学生の頃に第二次世界大戦を経験。集団疎開先の静岡県伊豆市で焚き木拾いのため雑木林に行った際に、B-29の奇襲を受けたことがある。機関銃による銃弾の雨の中を無我夢中で逃げ回り、九死に一生を得たという。1970年代のインタビューでは、少年時代の思い出で一番に浮かぶ出来事としており「マブタにくっきり焼き付いている」「今でも夢に見るくらいです」と語っていた。
1984年、ナレーションとして声の出演をしたテアトル・エコーの舞台『サンシャイン・ボーイズ』が文化庁芸術祭優秀賞を受賞した。これに対して「俺達はいつからお上に尻尾をふる劇団になったんだ」「今後、俺のナレーションは絶対に使わせない」と激怒した。熊倉の「康よぅ、そんなに怒るなよぅ。洒落だよ洒落」となだめる電話で「シャレじゃぁしょうがねえや」と怒りを収めたといい、山田没後の再演ではこのナレーションが再び使用された。
国産のアニメーションについては「生身の役者に絶対できないギャグや飛躍などができる素晴らしい魅力的な世界」と語る一方、歯に衣着せぬ評論をすることで有名だった。特にSFアニメには、少年期の戦争体験から「正義のためだとか言っているけど、やっていることは要するに戦争」と、強い嫌悪感を示していた。ただし、数少ない山田のレギュラーだったSFアニメ『宇宙の騎士テッカマン』のアンドロー梅田役は、事前に作品の設定を聞き「単なる勧善懲悪ではない」ことに納得して出演している。アニメブームについては「ブームになれば製作本数が増える。本数がふえりゃ優秀なスタッフが分散する。分散すれば質的にレベルは低下する。質的に補充しようったって、才能というのはそんな簡単に育つものじゃない」と語っていた。
役者としてのプライドから同業者に厳しい面もあり、自身も常にひたむきな姿勢で演技に取り組んでいた。また、物事に対して筋を通す性格であったため、収録で理に適わないことがあると激怒して帰ってしまったことが何度かあったというが、この行動について古谷徹は「それは出演者皆の気持ちを代弁したもの」と語っている。
後輩の神谷明は、山田の厳しい一面を語る一方、「山田さんは普段からルパンみたいな人で(笑)、カッコよくて、コロコロと性格が変わる役を見事に演じられていた」とも語り、「素晴らしい先輩」としてブログやインタビューで度々山田の名前を挙げている。増山江威子は山田の姿勢や発言について、「良い作品を作るための主張であり、我が儘や闇雲に言っていたわけではなく、『怖い人物』と伝わっている部分にも必ず理由があった」と語っている。
山田は生前「皆さんは『声優』というけど『声優』という商売はないんです」と語り、「『声優業』とは『役者』のする様々な仕事の中の1つである」というスタンスを徹底的に守っていた。山田のもとには「声優になりたい」という者が多く相談にやってきたが、山田は「声優になりたいと思うのならやめなさい。でも、役者になりたいのなら、やってみてもいいかもね」と返答していた。これには「声優業という一部分を目指すだけでは表現者として成功しない」という意味がこめられており、山田の役者としての誇りがうかがえるエピソードである。また、劇団内の新人指導では「声優を目指すな、役者を目指せ。演技は全身でするものだ。それでこそ『声優業』も活きてくるんだ」という言葉が口癖だったという。こういった考えから山田は「声優」という呼称を好まなかったが、声優業そのものに対しては、「役者としての感性が重要視される仕事」として誇りを持っていた。
「声優」という呼称を好まなかったものの、「声優」と言われることに対しては「マスコミが勝手にネーミングしたものだし、何と言われてもぼくの才能や力量が変わるわけではないから平気」と答えていた。ただ、その一方で「でも、セイユーと言われるとスーパーの店員になったみたいだね」と、皮肉を交えて語ることもあった。
『ルパン三世 バビロンの黄金伝説』の舞台挨拶に参加した際、舞台から客席へ向かって観客と写真撮影をすることになった山田は「背中に哀愁があるでしょ?」などジョークを挟みつつも、舞台俳優としてのプライドから観客へ背を向けることに対して「お客さんに失礼だ」「ちょっとの間、恐れ入ります」と謝罪しながら撮影を行ったという。
声優業で一番難しいのは、絵がなく、声だけで表現するラジオドラマだと発言している。アニメに対しては、上述のような「生身の役者に絶対できないギャグや飛躍」を演じられることは楽しいと語る一方、演じる側からして「(叫びなど)若くて声が出れば誰でもできる」「ある程度はニュアンスとかがなくてもいける」「(叫ぶ、悲しむなど)三つ位の(演技)パターンを持ってればできる」などの理由で、それでは他の役者が育たないこともあり「あまり好きじゃない」と発言しており、別のインタビューでは、下手な芝居にも一定の理解は示しつつ、声優ブームから下手な人物ばかりが起用されることに「アニメの声優には、芝居のうまくない人もいます。これでは偏っています」と苦言を呈した上で、「だから僕は言うんです。『声優になりたいならやめろ。俳優になりたいならやれ』」と語っていた。。
絵が完成していない状態でアフレコを行うことは、「録音した台詞と後からニュアンスや長さの違う絵が完成しても、リテイクの時間的余裕はなくそのまま放送される。その場合、演技で恥をかくのは役者である」という理由から嫌っており、「俺達は(無い絵を想像する)推理力を買われて来てるんじゃない。演技力を買われて呼ばれてるんだ」という言葉を残している。実際に『ルパン三世』では、絵が完成していないからという理由でアフレコを中止させ、出演者全員で引き上げたことがある(後述)。また「こんな録音状況が業界でまかり通るようになってしまった責任の一端は、それを許した役者側にもある」とも語っていた。
「役者は役になり切るのではなく、役を操るもの」と語っていた。
演技は全て地声で行い、声を作ることはほとんどしなかった。このことに関して山田は「あまり作ると無理が出てくるんです。ニュアンスが消えるようになっちゃう。だからあまり作らない」「同じ人間がやってて(声を)どう変えてもね、絶対に変わるもんじゃないです。もしそれが本当に変わっちゃうんだったら、悪口を言うわけじゃないけど、トーキングマシーンでしょ」と発言している。
アドリブが多いことで有名で、役やキャラクターを理解すると「ポコポコと自然に出てくる」ため、本番で直観的に思ったことをやってみるスタイルだった(アフレコでは、それを採用するかしないかはディレクターに任せていたという)。ただし、「今お前の言った方が面白いよ。でも俺は何て答えりゃいいの」と言われたこともあり、このことを晩年には「すばらしい仲間に随分迷惑をかけた」と反省している面もあった。
役作りに関して、本人はよくインタビューにおいて「“ヤマ”と“カン”だけを頼りにやってるし、舞台稽古はよくサボっている」と語っていたが、一つの舞台に出演すると必ず体重が数キロ落ちたといい、実際にはかなり計算づくされていたのではないか、と追悼本では評価されている。
役者業について「好きだということは大切」とした上でプロの場合は才能が必要だと語り、「どんなにいい人、好かれる人でも才能がなきゃダメ。オレたちの仕事は、ちょっとキザに言えば才能と才能のつきあいなんだから――」と述べている。また「芝居というものが人間の生活を描くものである以上、いろんなタイプの役者が必要」との考えを持ち、「役者である以上どんな役でもこなさなきゃ、というのは素人の考え」と語っていた。
自身の演技には、演劇は教育ではなく娯楽であり何かを解らせようという姿勢はないとの考えから「どうとって下さっても構わない」と語っている。
声優のギャランティの向上などを求めてテレビ局にデモを起こしたことがある。昭和40年代、声優は出演作の再放送分のギャラは支払われず、当時は作品1本につき最高で3万円であったのに対し、山田の仕事仲間の代役を務めた俳優・宇津井健のギャラは45万円だった。このため、山田はこれらを「声優全体の問題」と考え、この問題を解決するべく奮闘したという。結果、山田らの善戦が功を奏して再放送のギャラが認められるようになった。
このことについて、後で知った神谷明は「照れ屋だから絶対に(奮闘する部分を)見せない」と語り、「自分たち後輩を(影で)守ろうとしてくれていた」と述べている。
『お笑いスター誕生!!』で司会を担当する等、お笑い界と縁は深かった。このことを山田は「役者として感覚が現代的でなくなることは一番恐ろしい。そのため自然とそういう分野の人と交友関係を求めていると思う」と述べている。
ザ・ドリフターズとは『あなた出番です!』での共演を機に交友があり、山田は「この一連の番組づくりでオレの笑いの感覚は大いに開発された」と語っている。『8時だョ!全員集合』放送初期にはコントの演技指導を行ったり自身も出演(前半コントにおける敵役等)したほか、いかりや長介とはプライベートでも杯を交わすなどの交流を行っていた。また、メンバーが『ルパン三世』のアフレコ現場を訪ねたこともあったといい、小林清志は、当時小林の子供も夢中になっていたというドリフのメンバーが山田に丁重に挨拶するのを見て驚いたと語っている。
芸人のおぼん・こぼんとは交流関係があり、特におぼんとは家族ぐるみで付き合うなど親交があった。おぼんは後に「山田さんは人情味にあふれ、頭のきれる人、洒落の好きな人でした」と語り「山田さんの都会的なセンス、間の取り方には学ぶべきものがたくさんあって、ずいぶん盗ませていただいたけど、全部は盗めなかったなあ」と、自身の芸にも影響があったことを明かしている。
『お笑いスター誕生!!』の司会者を長年務めたこともあり、当番組に出場経験のあるダウンタウンやウッチャンナンチャンが出演する『夢で逢えたら』や『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』などのバラエティー番組では、ゲストとして登場したこともあった。『夢で逢えたら』では「初心を忘れない」というテーマでトークをした際、浜田雅功から「我々が初心を忘れた場合に喝を入れるようなご意見番・友人になってほしい」と言われ握手を交わしており、山田は「若い友達ができちゃった」と喜んでいた。
ルパン三世役の後任である栗田貫一は、ルパンのものまねをしていたことから山田と親交があり、還暦祝いのゴルフコンペに誘ったり、『ものまね王座決定戦』ではご本人として栗田と共演したこともある。長男で演芸作家の浩康の声が康雄とそっくりだといい、康雄の没後に一緒に飲んでいた栗田は「コツとか教えるからルパンやってよ」とルパン役の後継を依頼するも、「嫌だよ」と固辞されたと語っている。
クリント・イーストウッドの吹き替えは、出世作となった『ローハイド』以降、存命時にほぼ全作品で担当し、死後においても「クリント・イーストウッドといえば山田康雄」といわれている。山田本人は生前「『ローハイド』の頃のイーストウッドはナイーヴな青年といった感じだったけど、その後の彼はどんどん男臭い俳優になったので、軽い僕には合わない」と自分にイーストウッドの吹き替えは合わないことをたびたび語っていたが、『ルーキー』の吹き替え収録時、台本を見た山田がスタジオに来て即座に「これはイーストウッドの台詞じゃない!」とけなしたというエピソードがあるなど誰よりもイーストウッドを理解していたと思われ、本人も収録時にイーストウッドと逢うと「何故かホッとする」と「好き嫌いやキャラクターを突き抜けた何かがある」ことを語っていた。また、山田とイーストウッドは『ローハイド』のキャストが来日した1962年に一度だけ対面しており、その後しばらくは文通をしていたという。
ジャン=ポール・ベルモンドの吹き替えも数多く担当している。山田は、自身の吹き替えた俳優の中で一番好きなのがベルモンドだとよく言っており、「映画スターにしては芝居がうまいし、彼のやる役柄って、しっくりくるんです。やってて、楽しくってしかたがない」「アテレコをやっていてすごく刺激を受けた人」と語っている。また、山田の代表作であるルパン三世はベルモンドをモデルにしており、これについて「ベルモンドとルパンは大体同じ調子でやっている」「ルパンを実写化するなら、出来るのはベルモンドだけだと思う」とも語っていた他、一番思い出深い吹替出演作にベルモンド主演の『あの愛をふたたび』を挙げている。
何度か吹き替えを担当したジェラール・フィリップについては、ベルモンドと共に個人的に好きな役者の一人としている。
世間一般には「ルパン三世の山田康雄」として知られていた。また、山田は風貌や振る舞いまでルパンと似ており、常にキャラクターと一心同体のイメージでお茶の間に知られていた例の一つである。
ルパン役の後任である栗田貫一は後に「(アニメの)ルパンは山田さんが作ったもの」「ルパンの8割くらいは、山田さんのそのままの姿なんだと思うんです」と語っている。
山田とルパンの出会いのきっかけは、舞台『日本人のへそ』での役作りに悩んでいた山田が演出家の熊倉に参考として、当時『漫画アクション』に掲載されていた原作の切り抜きを渡されたことだった。
初めは「漫画でアドバイスはないだろう」と思いつつも、読み始めるとたちまち夢中になる。それ以降は毎週『漫画アクション』を買うようになると同時に、作中のルパンの“エッセンス”を自らの役にも盛り込んでいったという。
そして舞台本番、客席にはルパンの声優を探していたおおすみ正秋が偶然いた。山田の演技はおおすみの目に留まり、舞台終了後の山田へ直ちに出演を打診したところ、山田も「やる!」と即答で承諾したという。
山田はこの一連の出来事を後に「宿命的な出逢い」と表現している。
自分の名刺にルパンの顔で作っていたなど、ルパンには非常に強い愛着を持っていた。また、ルパンに「出会えて幸せ」だとインタビューでよく語っていた。
山田はルパンに対して、生きる姿勢や考え方が自身とよく似ていると言っており、「自由奔放で信念を持ってないこと」「義賊でないこと」「盗めそうもないものがあると、それが価値のないものであっても全知全能を傾けて盗むような、無目的の目的」が特に気に入っていると発言している。
銭形警部については、ルパンは銭形がいて初めて成立するキャラクターとしており「超一流の泥棒と超一流の警部が追いつ追われつつするうちに、相手の才能を認めあった上で芽生えた奇妙な友情、これなくしてルパン三世は成立しないのです」と語っている。銭形役の納谷悟朗は山田の死後、このことを「すごく嬉しかったよ」と回想している。
『ルパン三世 (TV第2シリーズ)』で渡された台本の中に「不二子ちゃん」「ルパン三世」の台詞があり、山田はそれを「ふ〜じこちゃ〜ん」「ルパ〜ンさ〜んせ〜」と独特の抑揚で表現した。以後、これらはルパンの代名詞的な台詞となる。また、山田のアドリブから銭形が「とっつぁん」と呼ばれるようになり、他にも「アララララ…」など独特の節回しやアドリブを多用したことで、ルパンのキャラクターに山田の個性が強く反映されていった。
生前のインタビューで、山田個人としては「いろんな意味で本当の『ルパン三世』に近い」と『TV第1シリーズ』の方が好みだと語っていた。『TV第2シリーズ』には「『俺はルパンだ』で随分通してきたから変な言い方は出来ない」としつつ、視聴率を重視したテレビ局の意向で子供向けになり過ぎたことへは不満を表している。
ルパンと山田のイメージが不可分になってしまったため、舞台でもコソ泥の役ばかりが回ってくるようになったこともあった。また、同一視されてしまうためルパンに対して「ありがたさ50%、迷惑さ70%」と答えたこともある。テレビなどで同一視されている趣旨の発言を受けた際は「じゃあ俺はマンガかあ!?」と返すのが定番だったという。
ルパンの役作りについては「感性の問題」と語り、原作から感じていたものと、映像の第一印象でひらめいたもののみ大事にして演じていた。また、ルパンは国籍や年齢が不詳という設定上、基本的に「何者か」などは深く考えずに演じていたと述べている。ただし「ルパンだけは『ふざけた人も危機になると真面目になる』ということはやめよう。追いつめられてヤバイときこそオチャラケていよう」という基本線は最初から決めていたという。
スタッフとはプライベートでの交流も多く、特に大野雄二とは大野の自宅スタジオに招かれて酒を飲み交わすほどの仲だった(山田のアルバムはすべて大野がプロデュースと音楽を担当している)。また「ただでさえ泥棒って悪いことやってんだから」と、ルパンにはあまり直接的な人殺しをさせないようスタッフに頼んでいたという。
脚本について、起承転結がはっきりして理屈詰めになることは「ルパンにならない」と嫌い、見た後の視聴者に想像の余地を残すような「なげっぱなし」の展開を気に入っていた。
山田は収録でスタジオに入るといつもやる気のないようなことを言っていたが、納谷悟朗によると、それはシャイな部分の裏返しや山田なりのシャレであり、いざ収録が始まると全くミスがなかったという。また、収録後の夜には、音響監督の加藤敏のもとへ酔った山田から自身の演技を心配する電話がよくかかったという。
アフレコを、映像が完成していないことから中止させたことがある。「ルパンは絵が完全に仕上がっていなければ録音しないと決めたはずだ。今日はやめだ」と、忽然とした態度でスタジオを後にしたという。納谷悟朗によると、ただ「やめよう」と言うだけではなく、「ダメだ、出来ないよこんなの。ねぇ悟朗さん、出来ないよね?」と納谷に話を振り、納谷も「うーん、まあなぁ。これなぁ」と同調せざるを得なかったという。納谷によると実際に中止になったのは2回あり、その内の1回に居合わせた松井菜桜子によると、その時動いていなかった絵はワンカットだけだったという。神谷明が後年、直に聞いたところによれば、「俺たちは別に絵がなくたってアテることはできるけど、ゲストで来てくれた役者に対してそれは失礼だろう」というのが真意だったそうである。
『ルパン三世 カリオストロの城』はいたく気に入っていた。アフレコの際、宮崎駿から「今回はこれまでと調子を変えて、例えばクリント・イーストウッドのような抑えた声をお願いしたいので宜しく」と注文を受けるが、「ルパンは自分で持っている」という自負心のあった山田は「ルパンはオレに任しときな!今更ごちゃごちゃ言われたくねーよ。ルパンは俺が決めてるンだ」と横柄な態度を見せた。しかし、収録前に映像の試写を見終えた山田は感動し、宮崎に「先程は大変失礼なことを言いまして申し訳ございません。どんな無理な注文でも仰って下さい、何百回でもやり直します」と頭を下げたという。同時期に放送されていた『TV第2シリーズ』に不満のあった山田は当作のルパン像に感動したらしく、公開時には「これが「ルパン三世」という作品の真髄ではないだろうか」と評し宮崎らに賛辞を送っている。テレビスペシャル第5作『ルパン三世 ルパン暗殺指令』アフレコ時に監督のおおすみ正秋から同様の指示をされた際は、「宮崎さんにも同じことを言われたよ」と嬉しそうに回想したという。
ルパン三世は今後も続編が作り続けられると考えていた山田は『ルパン三世 PARTIII』の最終回のアフレコの際、本編収録後にお別れのメッセージの収録を依頼されたところ「『これでお別れだ』なんて言っておいて、どうせまた新しいのをやるんだろ? そんな嘘はつきたくない」とメッセージの収録を拒否してスタジオを後にしたこともあったという。
原作者のモンキー・パンチは山田のルパンについて山田の没後、以下のように評している。
また、モンキーは自身が描くルパンの絵もアニメ化後は山田の強烈な声に影響されたという。しかし、OVA第一弾『ルパン三世 風魔一族の陰謀』公開後にレギュラー声優陣を一新した件でモンキーは山田との関係がギクシャクしてしまったといい、山田の訃報の電話を受けた際は、当作での誤解を解けないまま亡くなったことに声をあげて泣いたと語っている(詳細は「ルパン三世 風魔一族の陰謀」を参照)。
山田をルパン役に起用したおおすみ正秋は後年、その経緯と山田のルパンについて以下のように語った。
一度だけルパンを演じたことがある古川登志夫は、収録時に自分ならではのルパンを演じようとしたにも関わらずうっかり山田の真似をしてしまったといい、「絵を見た途端に、他人にも無意識の内に真似をさせてしまうのは、役者として人間国宝級の凄さ」と語っている。
アニメ放送開始から1980年代まで多くの脚本を担当した大和屋竺は「あの人(山田)が途中から
ルパンの収録現場での山田について、増山江威子は「役に没頭していていつもピリピリしていました。人並外れたすごい集中力で、ルパンに対して自分の全てを注ぎこんでいたのじゃないかしら」と語り、その山田の姿勢からいつも緊張感のある現場だったという。だが「だからこそいつもルパンの完成度は高かった」と評しており、井上真樹夫も「人に緊張を強いるところがあった」と述べた上で「みんなピリッとする。それが(『ルパン』が)良い作品になった理由の1つだと思うよ」と話している。その一方で音響監督の加藤敏によると、ゲスト出演者にはいつも気を配っていたという。
山田本人は、1989年に「口幅ったい言い方をすると、原作を離れて山田康雄のルパンというのが出来あがっちゃっているんだよね。あまりにボクのキャラクターといっしょになっちゃったものだから(中略)もとはモンキー・パンチさんが作ったものなんだけど、ルパンを動かし生かしたのはまさにオレたちなんだから」と語り、今後もルパンを演じることについては「オレがもうだめだ、できないってわかった場合は、『ルパン三世』の新作をつくるってことはやめて欲しいね、テレビ局であれ、映画会社であれ。これは悪いけど、共に老いさらばえて墓の中にもって行かしてもらいたいね。オレには、そういう思いってのがあるよ」という言葉を残している。
1993年、テレビスペシャル第5作『ルパン三世 ルパン暗殺指令』のアフレコの際、山田は休憩時間にとても疲れた様子で自ら申し出たため、途中からは椅子に座って収録。それまでは役者としてのプライドから座ってのアフレコなどなかったため極めて異例なことであった。また、アフレコ終了の帰り際に監督のおおすみ正秋が「身体を治して元気になり、俺が書く芝居に出て欲しい」と呼びかけ普段であれば喜んで引き受けるはずが、その日に限り寂しそうな表情で首を縦に振らずに帰ったという。
同じ頃、ルパンのCDであり自身のアルバムCDでもある『ルパン三世・Tokyo Transit〜featuring YASUO YAMADA』制作後、大野雄二に「次のアルバム早く作ろうよ。でないと俺死んじゃうよ」とたびたび電話をかけていたという。当時、多忙だった大野は「また冗談言ってるよ」と気にしていなかったが、山田の死後は次のアルバムを作ってやれなかったことが今でも悔やまれることとして述べており、「山田さんがいなければルパンじゃない」と山田の死の翌年である1996年にはルパンの音楽担当を一時降板している(1997年から復帰)。山田の死後に関係者の間では、この時期にはすでに自らの寿命を悟っていたのではと語られていたようである。
1994年、事実上の遺作となったテレビスペシャル第6作『ルパン三世 燃えよ斬鉄剣』も体調不良を押しての出演となり、椅子に座る形で収録を行った。この時、山田はいつもなら簡単に跨ぐスタジオ扉の約20センチの段差を跨げなかったため、プロデューサーの尾崎穏通は「かなり肉体的に参っているのでは」と感じていたという。
1995年1月、製作が決定していた映画『ルパン三世 くたばれ!ノストラダムス』予告編の収録を行う。本来は山田が本編にも出演予定であり、ポスターにも山田の名前がクレジットされていた。また、同時期にはルパンがイメージキャラクターとなったエッソ石油のテレビCMを収録。この時の山田は体調が良くスタッフは安堵していたが、これが山田にとって最後にルパンを演じた作品となり、遺作となった。
その後、山田が昏睡状態に陥り、知らせを受けたモンキー・パンチやレギュラー声優陣は「これでアニメのルパンは終わりだ」と考えた。だが、上述の通り『くたばれ!ノストラダムス』が製作中でアフレコ直前の段階まで完成していたことから、栗田貫一が同作限りの代役としてルパンを担当、その後、山田の死去を受け栗田が正式にルパン役を引き継ぐことになった。
葬儀の席では、弔辞を担当した納谷悟朗は山田の遺影に向かい、銭形の口調で「おい、ルパン! これから俺は誰を追い続ければいいんだ!」、「お前が死んだら俺は誰を追いかけりゃいいんだ」と涙ながらに呼びかけた。
『ルパン三世 くたばれ!ノストラダムス』では、本編終了後のスタッフロールが流れたあとに「永遠のルパン三世 山田康雄さん ありがとう」という追悼のテロップが付け加えられた。
※太字は、 主役・メインキャラクター。
※太字はルパン三世役で出演。その他、特筆が無い限りナレーションでの出演。
山田の没後、生前に担当していた役を引き継いだ人物は以下の通り。
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