松井 大輔(まつい だいすけ、1981年5月11日 - )は、京都府京都市山科区出身の元プロサッカー選手、元フットサル選手、サッカー指導者。現役時代のサッカーのポジションはミッドフィールダー・フォワード、フットサルのポジションはアラ。元サッカー日本代表。
妻はタレントの加藤ローサ。
寺西幼稚園卒園。京都市立大宅小学校進学。同級生の兄がサッカーをやっていたこともあり、小学3年生より大宅サッカースポーツ少年団に18期生(大宅小学校の生徒のみのチーム)で入団。同チーム内には同級生の山崎雅人も在籍し、他にも後にJリーグや実業団で活躍した同級生も多く在籍していた。特に松井と山崎は多くの大会で優秀選手賞を受賞した。チームとして小学校時代に約700試合をこなし敗戦は6敗程度という驚異的な強さのチームであったが、小学校5年生の時、京都アシックス杯において鈴木啓太擁する静岡県の清水FCに0-7で大敗。当時から府内でも有名な選手であり京都府選抜、関西選抜など数多く選抜チームに選ばれていた。
京都市立大宅中学校に入学し2年間を過ごすも、3年への進級と同時に安アパートへ移り住み、関西選抜などで監督を務めていた牧戸万佐夫がいる京都市立藤森中学校に転校。この当時から幅広くサッカー留学などを経験をし、短期留学先のパリ・サンジェルマンFCからテスト生としての誘いを受け、フランスサッカーへの挑戦を望むも実父に諭され高校進学に進路変更。
高校は地元の京都を離れ鹿児島実業高校に進学し、プレーとテクニックのレベルを上げていった。3年生時の全国高校選手権では2回戦で大久保嘉人擁する国見高校を、準々決勝では田中達也擁する帝京高校を破り、準優勝を経験。
同校の2年先輩に遠藤保仁、同級生に那須大亮、1年後輩には上本大海や後に京都で共にプレーした田原豊がいる。
2000年、複数のJクラブから打診があったが、憧れの三浦知良が当時在籍していた京都パープルサンガに加入し、プロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせる。プロ1年目からリーグ戦で22試合出場し、プロ初ゴールを挙げるなどの活躍を見せたものの、チームは年間順位で16チーム中15位と低迷しJ2へ降格してしまう。
2001年、背番号を前年の26から10へと変更。リーグ戦37試合出場7得点という結果を残し、チームのJ1復帰に貢献する。
2002年、黒部光昭、朴智星らと共に、クラブ初タイトルとなる同年度の天皇杯優勝に貢献する。
2003年は3トップの一角であった朴智星の移籍や黒部の故障離脱もありチームは低迷、再びJ2降格を経験した。
2004年9月1日に京都からフランス2部リーグ・ドゥのル・マンUCに2005年6月までの契約でレンタル移籍。背番号は、空き番の中で最も若い番号は『16』であったが、『16』は控えGKの番号である事から、次に空いていた『22』になった。松井の加入後、ル・マンは2部の中位から一気に1部昇格圏の2位にまで浮上し、その中心となって活躍した松井は、『le soleil du Mans (ル・マンの太陽) 』と呼ばれた。
レンタル期間終了後、2005年7月にル・マンに完全移籍。1部リーグリーグ・アンでのデビュー戦となった2005-06シーズン初戦の対リヨン戦で先制ゴールをアシスト、第12節の対RCストラスブール戦では鮮やかなミドルシュートを決めて初ゴールを記録。サイドアタッカーとしてル・マンの攻撃陣を牽引し続ける。2006年1月にはトロワAC戦での2ゴールなどが認められた形で、日本人初、ル・マンUCのチーム史上初である月間MVPを受賞する。このシーズンには、リーグ・アンのアシストランキングで3位の8アシスト を記録するなど、チームの残留に大きく貢献する。
2006-07シーズンは、初戦のニース戦でアシストを記録したもののサッカー選手の職業病とも言える腰痛に苦しめられ、2007年1月にはトロワ戦で2得点を記録したものの、シーズン後半は6試合連続で欠場した。しかし腰の状態が上向き、よりゴールの位置に近いセカンドトップ気味のポジションに配されてからは、最後の4試合では2ゴール1アシストを記録した。ケガなどにも苦しんだリーグ・アン2年目のシーズンではあったが、「今までで一番、プレーについて考え、自分のプレーについて研究したシーズンだった」 と本人は振り返った。
2007-08シーズンでは第2節で早々に初アシストを記録し、第5節の対ASモナコ戦では月間ベストゴールに選ばれるゴールを決めるなど好調を維持し(なお、このゴールはフランスの全国プロサッカー選手連合とCanal+が共同で選定する、リーグ・アンでのシーズンベスト5ゴールに選ばれた)、その後もチームのチャンスメーカーとして攻撃陣を牽引し、リーグ・カップの準々決勝ではリヨンを撃破するゴールを決め、アフリカネイションズカップで主力が軒並み不在な中でも存在感を発揮。大きなケガもなく安定して出場を続け、リーグ戦34試合に出場し5ゴールを記録した。
2007-08シーズン終了後にル・マンとの契約を更新せず、リーグで10度の優勝を誇るASサンテティエンヌへの移籍を決め、2008-09シーズンよりクラブとの3年契約を交わした。シーズン序盤は充分に起用されなかったものの、シーズン途中に監督が交代すると徐々に出場機会を増やしていった。
2009年6月に翌年南アフリカで開催されるワールドカップ出場を目指すため、出場機会を求めてグルノーブル・フット38に移籍した。背番号は移籍前と同じ「22」を与えられた。しかし、クラブは序盤から敗戦を重ね最終的にはリーグ最下位で2部への降格が決定した。
グルノーブルの2部降格決定後は1部リーグでのプレーを目指して移籍先を模索。欧州の相当数のクラブが獲得に興味を持ったと報じられる中、松井自身はフランス1部への移籍にプライオリティを置いていた。また、ポルトガル・スーペル・リーガの強豪スポルティングCPと移籍寸前まで交渉が進んだが破談。移籍期間終了間際になってロシア・プレミアリーグのFCトム・トムスクに2010年末までの期限付きで加入することが発表された。ロシア移籍後、欠場も多く目立った活躍もないままレンタル期間を終え、Jリーグの複数のクラブから獲得オファーを受けるも、海外でのプレーを希望する本人の希望もあり、グルノーブルへ復帰した。しかし、チームは2部リーグでも最下位となり、3部リーグへ降格。
2010-11シーズン終了後、グルノーブルが経営難により、プロ選手との契約ができない4部リーグへの2段階降格が決まったことで、フリートランスファーでの移籍が可能となった。
2011年7月27日、この年クラブ初のリーグ・アン昇格を果たしたディジョンFCOへ完全移籍し2年契約を結んだ。しかし、ディジョンでは左足首の怪我とパトリス・カルテロン監督との確執もあり、ほとんど出場機会に恵まれずリーグ戦の出場はわずか3試合に留まりチームも2部に降格した。
2012年9月11日、ブルガリアプロサッカーリーグのPFCスラヴィア・ソフィアへの移籍が決定した。しかし、怪我の多さが響きリーグ戦の出場は11試合、フル出場は4試合のみに留まった。2013年6月16日、国立競技場で開催された東日本大震災復興支援 2013Jリーグスペシャルマッチにゲストプレイヤーとして出場し、同点ゴールを決めた。
2013年7月3日、ポーランド1部のレヒア・グダニスクへ移籍。7月22日、開幕戦のポドベスキジェ戦でスタメン出場し2ゴールを決めた。
レヒアでは、監督や選手から信頼され、若手にアドバイスしたり 自分の意見も通せたりと、松井曰く「王様になりながらやれた」という。しかし、磐田からオファーを受けて、もう一度日本でプレーをしたいと言う気持ちとジュビロ磐田が必要としてくれているという事に帰国を決めた。
2014年からジュビロ磐田へ移籍。10年ぶりのJリーグとなる。
開幕からゲームキャプテンを担当していた が、ペリクレス・シャムスカが解任後に新監督となった名波浩の指名で前田遼一がゲームキャプテンを担当することになっている。それについて名波は、長年クラブに在籍する前田にチームを引っ張って行ってほしいということと「 (松井) 大輔がもともと巻いていましたが、キャプテンを交代してころころ代えるのはみっともないなというのもあったので。キャプテンマークは90分間出るであろう人間が巻くべきだと思うので、前田にしました。それは大輔も了承済みです。」と話している。2014年シーズンは、レギュラーとして活躍するもチームはプレーオフで敗れてJ1昇格を逃した。
2015年シーズンは、スタメンとしての出場は少なかったが、サブとしてチームを支え監督の名波からも「強いチームには大輔みたいな裏キャプテンがいる」と信頼を寄せている。2015年は26試合3得点を記録し、磐田のJ1復帰に貢献した。
2016年シーズンは、レギュラーの座を掴めずリーグ戦16試合無得点でシーズンを終えた。
2017年シーズンは、昨シーズン同様にレギュラーを掴めず苦しいシーズンとなったが、横浜FMから磐田に加入した中村俊輔から「あいつが磐田での居場所を作ってくれた」 とチームを裏で支え、監督の名波や磐田側から「磐田で引退」を提案されるなどクラブからの信頼も厚かったが、「安定があると外に出たくなるというか。厳しい環境に身を置きたい」という理由で海外移籍を決意。
2017年8月2日、ポーランド2部のオードラ・オポーレへ移籍する事を発表。36歳にしての海外移籍について「この年齢での海外移籍は、無謀と言われるかもしれませんが、挑戦すること、挫折することは自分の財産になると思っています。自分の道は誰も歩めない。前進あるのみ」とコメントしている。8月12日に行われた第3節のミェジ・レグニツァ戦で移籍後初出場を果たした。
2018年1月22日 横浜FCへの完全移籍が発表された。2018年シーズンは、コンスタントにベンチ入りしたものの リーグ戦9試合にとどまった。
2019年3月3日に行われたモンテディオ山形戦では、小学生以来となるCBでプレーし、後半は79分に交代するまでSBとして出場した。7月10日に行われた天皇杯2回戦・仙台大学戦で、移籍後初ゴールを挙げた。
2020年12月3日、ベトナム・Vリーグ1(1部)のサイゴンFCへの移籍を発表。同月5日、第31節・サガン鳥栖戦後に行われたセレモニー後に、ベトナムでの戦いに向けて準備や新型コロナウイルスによる影響によりベトナムに着いた後にホテルで2週間待機になる事からシーズン終了前にベトナムへ向かった。2021年4月18日、同時にサイゴンFCに加入した高崎寛之らとともに選手登録を解除されたと報じられたが、4月22日にInstagramで「まだ何も決まってない」と投稿した。その後も松井は選手登録から外れることがなく、2021年シーズンはVリーグ1で7試合に出場したが、13節を消化したところでCOVID-19パンデミックのためにリーグは中断し、8月24日に正式に中止が決定した。
2021年9月10日、Y.S.C.C.横浜フットサルと契約したことが発表された。14日に加入記者会見が行われた。
2022年1月21日、Y.S.C.C.横浜への加入が発表された。Y.S.C.C.横浜フットサルにも籍を残したままであり、サッカーとフットサルの二刀流に挑戦することになる。なお、過去にJリーグクラブ所属中にFリーグクラブにも登録しFリーグに出場した例は菅野哲也、三浦知良などがあったが、二人はJリーグのオフシーズンにFリーグに参戦しており、フルタイムでJリーグとFリーグを両立させたのは松井が初の例になった。Fリーグ初年度は怪我もあり出場試合はわずかに留まったが2シーズン目となる2022-23シーズンは第二セットのピヴォとしてもプレーするようになり存在感を示した。
2022年7月、J3リーグ月間ベストゴール賞を受賞。
2024年2月20日、自身のInstagramのライブ配信にて現役引退を表明した。なお、引退試合は2024年の12月に行う予定。
2024年3月21日、横浜FCサッカースクールコーチへ就任。さらにその直後の同年4月5日、浦和レッドダイヤモンズのアカデミーに加入し、ロールモデルコーチを務めることが発表された。横浜FCと浦和レッズのコーチは兼任となる。
ジーコ代表監督により、アテネ世代としては大久保嘉人、石川直宏と共にいち早く招集を受け、2003年6月22日のコロンビア戦で日本代表デビューを果たす。
2004年のアテネオリンピックではU-23日本代表の背番号10を背負った。
2005年11月16日のアンゴラ戦で代表Aマッチ初得点を記録し、チームの勝利に貢献した。当落線上と見られた2006年ドイツW杯へのメンバー入りは、期待されながらも落選。
2010年6月に南アフリカW杯日本代表メンバーに選出され、全4試合にスタメン出場。グループリーグ第1戦カメルーン戦においては決勝ゴールとなる本田圭佑のゴールを右サイドからのクロスでアシストするなど攻守に活躍し日本代表の決勝トーナメント進出に貢献。決勝トーナメント1回戦のパラグアイ戦でもバー直撃のミドルシュートを放つなど活躍し、PK戦で失敗した駒野友一を泣きながらに慰めるなどあらゆる面で主力選手としての役割を果たした。後に公表されたFIFAの技術研究グループが作成したW杯南アフリカ大会の報告書では、本田圭佑と共にドリブル技術が高いと評価された。
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