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拾遺和歌集


拾遺和歌集


拾遺和歌集』(しゅういわかしゅう)は、『古今和歌集』『後撰和歌集』に次ぐ第三番目の勅撰和歌集で、いわゆる「三代集」の最後にあたる。一条天皇の代、寛弘2年(1005年)から寬弘4年の間の成立か。

概要

古来、花山院の親撰もしくは花山院が藤原長能・源道済に撰進させたといわれてきたが、確証はない。花山天皇が退位した後、和歌趣味によって編まれた歌集であり、勅撰集としての手続きなどは疎かにされた。そのため、藤原公任撰と言われる私撰集『拾遺抄』がむしろ勅撰集として扱われた。『拾遺和歌集』が勅撰集として認知されるのは、藤原定家『三代集之間事』以降である。

成立事情が曖昧であり、古くは『拾遺和歌集』を精選したものが『拾遺抄』と位置づけられていたが、この説が塙保己一によって否定され、両作の比較検討から『拾遺抄』を増補して『拾遺和歌集』が成立したことが確実となった。諸本としては、『拾遺抄』から異本『拾遺和歌集』が生まれ、さらに流布本『拾遺和歌集』が生まれたと推定される。

流布本によれば、歌数は1351首、部立は春・夏・秋・冬・賀・別・物名・雑(上・下)・神楽歌・恋(5巻)・雑春・雑秋・雑賀・雑恋・哀傷の計20巻から成る。雑春・雑秋・雑恋・哀傷といった特異な部立ては、『拾遺抄』の雑の部立てを細分化したためである。

「拾遺」の名は前代の勅撰集に漏れた秀歌を拾い集める意である。収められた歌人は、紀貫之(113首)・柿本人麻呂(104首)・大中臣能宣(59首)・清原元輔(46首)・平兼盛(38首)などで、『万葉集』や『後撰和歌集』の時代の歌人が高く評価されている。また、藤原輔相・藤原順・藤原好忠など独特な歌風を持つ人物や、和泉式部・斎宮女御・藤原道綱母・藤原公任などの当代歌人も登場する。

『拾遺集』は当時の歌壇の流れに乗った平明優美な歌風で、賀歌・屏風歌・歌合など晴れの歌が多い。特に恋歌が優れており、小倉百人一首に8首採られている。

校注文献

  • 『八代集2 拾遺和歌集 後拾遺和歌集』 奥村恒哉校注、平凡社〈東洋文庫〉、1986年、ワイド版2008年
  • 『拾遺和歌集 新日本古典文学大系7』 小町谷照彦校注、岩波書店、1990年
  • 『拾遺和歌集 和歌文学大系32』 増田繁夫注解、明治書院、2017年

文庫判

  • 『拾遺和歌集』 小町谷照彦、倉田実校注、岩波文庫、2021年(上記を改訂)
  • 『拾遺和歌集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』 川村裕子編・解説、角川ソフィア文庫、2023年11月 

脚注


Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 拾遺和歌集 by Wikipedia (Historical)


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