
竹脇 無我(たけわき むが、1944年2月17日 - 2011年8月21日)は、日本の俳優。本名同じ。
千葉県我孫子市出身。石原プロモーション、タケワキプロダクション、イザワオフィスに所属した後、アクターズ・セブンに所属していた。
アナウンサー・ニュース映画解説者をしていた竹脇昌作の三男として生まれる。最初は「宇宙」という名前を父からつけられる予定であったが、母の反対で「無我」という名前になった。青山学院中等部・青山学院高等部卒業、青山学院大学法学部卒業。父・昌作の自殺、元ラジオ関東アナウンサーの長兄・竹脇義果の半失明状態、さらには次兄・竹脇真理が脳腫瘍のため18歳で早逝するなどしたために苦しくなっていた一家の経済状況を立て直すべく、16歳で映画界入りした。
1960年に松竹映画『しかも彼等は行く』で俳優としてデビューする。1965年、『アンコ椿は恋の花』で初主演を果たした。松竹は田村正和とともに無我を看板俳優に据えたいと考えプロモーションしていたという。テレビドラマ『姿三四郎(1970年)』、映画『人生劇場(1972年)』で一躍スターとなり、クールな二枚目のイメージを確立させた。特に『人生劇場』では高橋英樹、田宮二郎、渡哲也を抑えて主演を務めている。石原プロモーションに在籍していたことがあったが、1971年に退社している。
1966年10月から1971年4月までTBS系で放送された、若者向け情報番組『ヤング720』では司会を担当(1966年11月から1967年9月)。この当時に知己を得た関口宏、松山英太郎、西郷輝彦とは晩年まで親交があった。
テレビドラマでは森繁久彌や加藤剛との共演が多く、親交が深かった。
時代劇やホームドラマなどで幅広く活躍。美声であったことから女性ファンが非常に多く、知的で優しいイメージが定着して「理想の夫ナンバーワン」と呼ばれた。一方で、外面と内面とのギャップに悩まされ、気の休まらない日々が続いたという。
役者として円熟味が増してきた矢先、友人の松山が食道癌で1991年に死去したショックと、二枚目を演じるストレスなどにより、48歳ごろから自殺の衝動を酒で抑え始め、心療内科での診察を受けてうつ病と診断された。抗うつ剤と眠剤でうつ度が軽くなり、自身も周囲も病状をやや甘く見ていたため、半年の入院後に復帰することをマネージャーと病院に伝えて1度は退院したものの、再び落ち込みが激しくなり、また自殺の衝動を酒で抑える事態となった。糖尿病と高血圧症も併発し、再度入院。その入院が元となり、娘からのサポートや森繁・加藤からの手紙が心の励みとなり、うつ病の治療に専念する。
8年間の闘病生活の末に復帰。食生活も改善して闘病体験を語れるまでになったが、2009年に父と慕っていた森繁が亡くなったことによる精神的ショックで、以後再び落ち込みが激しくなり、食生活の改善を続ける一方で、一度は止めた飲酒と喫煙を再び続けるようになり、うつ病と糖尿病時に併発していた高血圧症の症状が再度現れた。
2011年8月21日、同日未明に自宅内で意識不明の状態で発見され、東京都大田区の東邦大学医療センター大森病院に搬送、集中治療室で入院中と報道された。脳幹出血の症状があり、集中治療室にて治療が続けられていたが、同日14時5分、小脳出血により東邦大学医療センター大森病院にて死去した。67歳没。
8月22日、日本基督教団の東京都民教会にて近親者と石井ふく子、長山藍子、関口宏、西郷輝彦、勝呂誉といった故人と親交が深かった芸能関係者らが列席し、密葬が行われた。無我は2012年1月2日から22日までの明治座公演『女たちの忠臣蔵』に出演が決定していた が、その出演は果たせぬものとなった。
死去が報道された2011年8月22日にTBSテレビで再放送されていた『大岡越前・第12部』第22話「鬼を泣かせた大工裁き」の冒頭部分にて追悼テロップが流れた。TBSテレビでは8月23日に追悼企画として、『おやじのヒゲ20・南国沖縄珍道中!ガンコ親爺の目に涙』を、BS-TBSでは8月25日に「竹脇無我さん追悼特別番組『おやじのヒゲ11』」を放送した。
竹脇の死去の報に、加藤剛が追悼メッセージを発表したのを始め、関口宏や西郷輝彦、加山雄三、津川雅彦など無我と縁が深かった者たちが追悼のコメントを発した。
10月5日、お別れの会が都内ホテルで行われ、かつての共演者や友人の加藤剛、関口宏、西郷輝彦、いしだあゆみ、長山藍子、石井ふく子、小泉純一郎、土田早苗、あおい輝彦、草笛光子、音無美紀子、中村雅俊、沢田雅美、高橋元太郎ら約300人が出席した。発起人は小泉純一郎元首相、加藤剛ら。葬儀委員長はかつて無我が所属したイザワオフィス社長井澤健。小泉はかつて無我に知人の選挙カーに乗ってもらった縁がある。ドラマ『大岡越前』で親友役(他に「風が燃えた」、「関ヶ原」(TBS)に共演)を演じ、公私共に40年間以上、親友関係の加藤が発起人代表として弔辞を述べ「こうして立っていてすら、どうしても君の姿を、人の間に探してしまう。無我ちゃんがいないとはどうしても思えない。今は、待っている電話がもう鳴りません」「オシャレな無我ちゃんらしいラストメッセージ。またいつものように電話を下さい。待っています」と無我が電話魔であったこと、死去の2日前に無我の2人の娘の名をつけ、苗木から育てた2本の桜の木に花をつけたエピソードを披露。2012年の明治座公演『女たちの忠臣蔵』で共演予定だった西郷輝彦は「無我ちゃん、一緒に舞台に立ちたかったね」「本当にありがとう」と無我への思いを述べた。
1970年に結婚、2人の娘が生まれたが、十数年の別居生活の後、1997年に離婚した。後年には内縁の妻と同居しており、前妻・娘2人・内妻に見守られながら息を引き取った。1970年代後半から1980年代にかけては、十朱幸代、土田早苗を始めとする共演女優との不倫スキャンダルが週刊誌にしばしば報道された。
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