田原 俊彦(たはら としひこ、1961年2月28日 - )は、日本の歌手(アイドル)、俳優、タレント。ジェイブレイブ所属。
神奈川県横須賀市出生、山梨県甲府市出身。愛称はトシちゃん。妻は元モデルの向井田彩子。娘が二人おり、長女はタレントの田原可南子。
神奈川県横須賀市で生まれる。住まいは海の近く、馬堀町の小さな借家だった。家族は小学校の教師の父と母、姉2人、妹がいた。
父は学校の教師だったから、机に向かって調べ物をしたり、何か難しそうな本を読んだりしていたという。両親は信者ではなかったが、田原は「マリア幼稚園」というカトリックの幼稚園に通った。毎朝、迎えのバスで幼稚園に行き、朝は「天にましますわれらの父よ…」とお祈りをした。
父が勤めていた小学校には当時、教師たちによる「宿直」制度があり、田原が4〜6歳ぐらいのころ、一緒に小学校に泊まりに行った。父の隣で布団をかぶって寝るなど、2人だけの貴重な時間を過ごした。
1967年3月、横須賀・大津マリア幼稚園を卒園後、同年4月に横須賀市立馬堀小学校に入学。しかし、入学後間もなく6月23日に父が糖尿病で亡くなり、一家の生活が立ち行かなくなったため、翌7月2日に母の故郷である山梨県甲府市桜井町に転居。母の手ひとつで育てられながら、高校卒業までを甲府市で過ごした。甲府市立甲運小学校、甲府市立東中学校、山梨県立甲府工業高等学校(全日制・土木科)卒業。
幼い時に父を亡くして、田原自身を含む4人の子供を抱えた母子家庭の生活は貧しく、また芸能界に対する強い憧れもあって、貧しい生活から早く抜け出して一家を楽にさせるには芸能人になって成功する以外に道はないと中学時代から決意していた。田原が芸能界に興味を持つようになったのは、3人の姉妹達の影響が大きかったという。
高校に入学した直後の1976年5月にジャニーズ事務所宛の履歴書を送ったが、いつまでたっても返事が来なかったため、同年8月に事前連絡することなく東京の事務所を直接訪問。事務所のスタッフからジャニー喜多川社長の居場所を教えられて日劇へ行き、ジャニー本人と直談判の末に入門を認められる。
高校時代は事務所のレッスンのため週末ごとに甲府市と東京の間を電車で往復する生活を続けた後、1979年3月1日、高校卒業と同時に正式に上京。母は当初、息子を父と同じ教師にしたかったため、息子の芸能界入りには反対していたが、息子が正式に上京する時には、「やっぱり芸能界は無理だった、なんて言って逃げて帰って来るんじゃないよ」と言って送り出したという。なお、田原は後にフジテレビ系列の『教師びんびん物語』で父と同じ小学校教師の役を演じた。
テレビの初出演は1978年の秋(当時高校3年生)、テレビ朝日の『とびだせ!パンポロリン』にて。歌と体操のお兄さんとして出演していたギャングスの松原秀樹の代役出演。
1979年4月、曽我泰久(現:曾我泰久)、長谷部徹と共に、川崎麻世のバックコーラス&ダンスグループ「ピラミッド」を結成。7月まで、毎週日曜夜7時から30分間放送していた日本テレビのダンス番組『ミュージックボンボン』にもピラミッドとして出演。7月、フォーリーブスのおりも政夫がミュージカル『南太平洋』に出演した際、1か月間だけ彼の付き人を経験したことがある。
1979年10月から半年間、学園ドラマ『3年B組金八先生』に沢村正治役でレギュラー出演。同番組で共演の近藤真彦と野村義男と共に「たのきんトリオ」の愛称で人気を博することになった。なお、近藤と野村は放送当時実際に中学生(当時15歳)であったが、田原はすでに18歳(放送中に誕生日を迎え19歳)で高校を卒業していたため、事務所側の意向もあり、1歳若く年齢を詐称。その年齢との辻褄を合わせるため、公式のプロフィールも「高校を2年一杯で中退」に変更した。この件については、後に歌番組の中で謝罪している。当時の田原の人気は凄まじく、全国から送られてくるファンレターの数が最高で月18万通にも達したという。
1980年春、NHKの若者向け音楽番組『レッツゴーヤング』に番組専属グループ「サンデーズ」の新メンバーとしてレギュラー出演。
1980年6月、たのきんトリオの先陣を切り、レイフ・ギャレットの『New York City Nights』をカバーした『哀愁でいと』で歌手デビューした。以降、1980年代のトップアイドルとして活躍する。ダンスビートに乗って踊りながら歌うポップスの男性アイドルとなった。第1シングルB面および第2シングル以降、クラシック畑の宮下智を作曲担当にした。1982年、ブロマイド年間売上実績の男性部門でトップとなった。
第22回日本レコード大賞・最優秀新人賞、第11回日本歌謡大賞・放送音楽新人賞などを受賞し、その後も『教師びんびん物語』などのドラマに主演するなど、俳優としても活躍した。
ファンによるステージ用の応援コールも生まれた。代表的なものは「T・O・S・H・I スーパーアイドルLOVE俊ちゃん!」。また、『哀愁でいと』から『ジャングルJungle』まで、オリコンシングルの連続TOP10入り37作の記録を持つ。その後の3作はTOP入りを逃すも、『雨が叫んでる』で通算38作目かつ現在で最後のTOP10入りとなった。通算で38作のオリコンTOP10入りはサザンオールスターズの『愛と欲望の日々/LONELY WOMAN』に破られるまで、当時歴代1位の記録だった。
1984年ロサンゼルスオリンピックの際、聖火リレーのランナーの1人として、日系アメリカ人俳優のジョージ・タケイらとリトル・トーキョーを走った。その際、現地報道では「日本のマイケル・ジャクソン」と紹介された。
TBS『ザ・ベストテン』では最多出場記録を持っており、同番組には田原の名前入りの青いソファーが1988年1月7日よりスタジオに設置され。このソファーは、1987年12月31日の『ザ・ベストテン』放送の際に紹介。
フジテレビ『夜のヒットスタジオ』初出演はデビュー9日後の1980年6月30日放送回。以降、原則月1回 - 2回のハイペースで出演を続け、番組終了(1990年10月)までの間に158回の出演回数を記録。番組が『夜のヒットスタジオDELUXE』と改題、2時間枠に放送時間を拡大したのを機に新設されたマンスリーゲストにも歴代最多の3回(1985年5月、1986年12月、1989年6月)抜擢。『教師びんびん物語』主演当時は教え子役の子役との共演ともに主題歌でもある『ごめんよ涙』を披露、座長公演の最中での出演時はその舞台のいでたちで番組に登場、渡辺貞夫・久保田利伸らとセッションを行うなど、パフォーマンスを数多く番組内で披露。レギュラー放送最終回の1990年9月19日放送ではトリを任され、スタジオを駆け回りながら『ジャングルJungle』を熱唱。
1980年から1986年まで、『NHK紅白歌合戦』に7年連続出場。しかし1987年は、歌手活動より俳優業が多くなった時期でもシングルは『KID』、ドラマ『ラジオびんびん物語』の主題歌『どうする?』等3枚発売されたが、落選。翌1988年に発売された『抱きしめてTONIGHT』がフジテレビ系ドラマ『教師びんびん物語』の高視聴率とリンクしたこともあり、久々の長期的ヒットに発展。1988年の紅白に選ばれるが、前年落選の報復をするかのように、本人の希望で出場者発表後に突然の辞退宣言を表明。1989年、『ごめんよ涙』でヒットしたものの、不出場。その後、NHKの番組に一切出演していなかったが、1994年『ふたりのビッグショー』(松田聖子と共演)、2005年『思い出のメロディー』、2021年2月には『田原俊彦“還暦前夜!”スペシャルワンマンライブ』(NHKBSプレミアム)に出演している。
光GENJIの諸星和己の回想によると、当時の田原はジャニーズ合宿所で別格で、夜9時ぐらいに田原が帰ってくるまで他のタレントは夕食を食べてはいけないことになっていた、近藤も頭を下げる事があった、など絶対的な存在だったという。
1991年1月、個人事務所「DOUBLE "T" PROJECT」を設立。当初ジャニーズ事務所と並行して所属していたが、1994年3月1日にジャニーズ事務所から完全に独立。それに先立つ1994年2月17日、長女が誕生。記者会見に応じるが、一通り話した内容のうち会見終了時に発した「僕くらいビッグになると…」の部分だけをマスコミが切り取って取り上げられ、激しいバッシングを受ける。本人としてはジョークのつもりだったが、メディアから「思い上がっている」と批判された。後年のインタビューでは「僕に力がなかった」と反省するコメントをしている。
この独立は、ジャニーズ側の反対を押し切って実行されたものと言われ、独立後はジャニーズの後輩たちとの共演はほぼ不可能となった。独立当初は田辺エージェンシーと業務提携していたため『笑っていいとも!』などに出演していたが、提携解消後はたちまち芸能活動が立ち行かなくなり、1996年に事務所は倒産。『教師びんびん物語』で共演していた野村宏伸のつてでヒロ・パブリッシャーズと契約するも、テレビ業界からは完全に干され、タレントとしても長らく不遇な時期が続いた。その後、毎年コンサートツアーやディナーショーを全国各地で行い、地道な努力を辛抱強く積み重ね再びマスコミの注目を集めるようになった。
現在は司会者としても活躍しながら、古くからのファンだけでなく多くの若年層のファンをも獲得。
2006年6月からインターネットラジオ番組「田原俊彦DOUBLE"T"リラックスタイム」を開始し、2009年シーズン4では視聴者数(ユニークユーザー)が25万人を超えた。2010年4月にシーズン5を迎え、田原俊彦DOUBLE"T"リラックスタイム5と題している。
2009年4月、田原俊彦デビュー30周年記念プロジェクト公式サイトを設立。5月27日、23年ぶりとなる自伝『職業=田原俊彦』(KKロングセラーズ刊)を出版。
2017年6月、ユニバーサルミュージックよりシングル「フェミニスト」発売。2006年以来11年ぶりのメジャー復帰。
2019年9月4日に東京ドームで行われた故・ジャニー喜多川の「お別れの会」には参列しなかった。
2021年2月28日、還暦を機にTikTokの公式アカウントを開設。
2021年8月18日、8月14日に亡くなり、過去世話になった藤島メリー泰子にお悔やみのコメントを発表した。
2022年9月30日、テレビ番組の制作プロダクションであるいまじんCRとサイコー!の共同プロデュースよる個人YouTubeチャンネル『田原トシちゃんねる!』を開設。
身長175cm、体重62kg。
父(故人)はかつて小学校の教師をしており、当時の教え子に伊藤聖史が居た。
マイケル・ジャクソンを最も尊敬するアーティスト、お師匠さんと挙げている。
矢沢永吉と浜田省吾の大ファン、初のライブ観戦は中学1年生のとき、山梨学院大学講堂で行われたキャロルのライブだった。浜田はデビュー前、『MIND SCREEN』を聴きファンになり、デビュー後に『MIND SCREEN』収録「ダンシング・レディ」をテレビで歌唱。浜田とは『明星』1987年1月号で対談、都度、浜田の作品を雑誌記事で紹介。浜田から「詩を作ってくれたら曲をプレゼントするよ」と言われたが、実現はしなかった。田原がプロデビュー後に行った他人のコンサートは浜田のみ、カラオケでは自分の曲は歌わず、浜田と矢沢を歌う。
田原は過去の独立問題と何ら関係なく、人生最大の恩人としてジャニー喜多川に対する敬意と感謝の気持ちを、今も変わらず持ち続けている旨を自伝『職業=田原俊彦』の中で語っている。また、田原は前述の通り幼い時に父を亡くしているため、自分にとってはジャニーは第二の父であるとも語っている。
田原のバックダンサーや振付師として、木野正人(乃生佳之と共に「BD104(バックダンサートシ)」を1980年代後半に組んでいた)が長年、務めてきた。現在のバックダンサーはNAOTO(LYRICAL THANKS・Red Ribbon)を筆頭に男性4人構成で全ステージを彩る。
プロサッカー選手の三浦知良とは、三浦がまだ無名だった頃からの親友。
1993年、三浦がJリーグアウォーズ表彰式で、初代MVPを受賞した際着ていた真赤なタキシードは、田原が10周年コンサートツアーで着用した物。テレビでの共演も多い。
近藤とは若いころ仲がよかったが2021年時点で連絡を取り合うことがないほど接点がなくなったものの、近藤が退所したことで現状を案じるなど気にかけている。
数多のデュエット共演をした研ナオコと、非常に仲が良いことで知られる。
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