後柏原天皇(ごかしわばらてんのう、1464年11月19日〈寛正5年10月20日〉 - 1526年5月18日〈大永6年4月7日〉)は、日本の第104代天皇(在位:1500年11月16日〈明応9年10月25日〉 - 1526年5月18日〈大永6年4月7日〉)。諱は勝仁(かつひと)。
後土御門天皇の第一皇子。母は庭田重賢の女の庭田朝子(蒼玉門院)。
文明12年(1480年)12月13日に親王宣下。
明応9年(1500年)10月25日、後土御門天皇の崩御を受けて践祚した。しかしながら、応仁の乱後の混乱のために朝廷の財政は逼迫しており、後柏原天皇の治世は26年におよんだが、即位の礼をあげるまで21年待たなくてはならなかった。
文亀2年(1502年)6月、11代将軍・足利義澄が参議・中将昇任のために朝廷に献金して天皇の即位の礼の費用にあてることを検討したが、管領・細川政元が「即位礼を挙げたところで実質が伴っていなければ王と認められない。儀式を挙げなくても私は王と認める。末代の今、大がかりな即位礼など無駄なことだ」と反対し、群臣も同意したため献金は沙汰止みとなる(『大乗院寺社雑事記』(尋尊大僧正記)文亀2年6月16日条)など、主要な献金元である室町幕府や守護大名も逼迫していたために、資金はなかなか集まらなかった。また、近年の説として、鎌倉時代に大内裏が荒廃した後も即位の礼の会場として維持・再建の継続が図られてきた太政官庁が応仁の乱で完全に焼失していたため、太政官庁を再建してから即位式を実施するのか、それとも大内裏の紫宸殿を代わりの施設として儀式を行うのかで朝廷内で議論になり決着がつかなかったのも即位式が開けなかった一因であると指摘されている。
最終的に即位の礼を行うことを最優先として太政官庁の再建を断念して紫宸殿での開催を決定した上で、費用調達のために朝廷の儀式を中止するなど経費節約をし、幕府や本願寺9世実如の献金をあわせることで、大永元年(1521年)3月22日に即位22年目にして、ようやく即位の礼を執り行うことができた。ただし、この時も直前に将軍・足利義稙(10代将軍の再任)が管領・細川高国と対立して京都から出奔し、開催が危ぶまれた。だが、義稙の出奔に激怒した天皇は即位の礼を強行(『二水記』永正10年3月8日・20日条)して、警固の責任を果たした細川高国による義稙の放逐と足利義晴の擁立に同意を与えることとなった。
大永6年(1526年)4月7日、崩御。宝算63。
応仁の乱により、公卿は地方に離散し、朝廷の財政は窮乏し、天皇の権威も地に落ちた時代だった。財政難で廃絶した朝廷の儀式の復興に力を入れる反面、戦乱や疾病に苦しむ民を思い続けた。
仏教に帰依し、大永5年(1525年)の疱瘡大流行時には自ら筆をとって「般若心経」を延暦寺と仁和寺に奉納した。また、詩歌、管弦、書道に長けていたといわれている。
後柏原天皇は父の後土御門天皇と同様に敬虔な仏教徒だった。貧窮は自分の罪障が原因と考えて、阿弥陀仏の慈悲に希望を託した。後柏原天皇は、以下の和歌を詠じた。
「後柏原」は、桓武天皇の別称柏原帝にちなむ。
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方形堂。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
灰塚が京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)にある。
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