大関(おおぜき)とは、大相撲の力士の地位の一つ。横綱の下、関脇の上。三役の最上位。幕内に属する。
「大関取」が語源とされ、明治中期までは力士の最高位であった。本来「三役(力士)」とは「大関・関脇・小結」を指し、大関は三役の最上位であるが、制度上の特権も多く、関脇や小結とは区別して扱われることが多い。本場所では幕内力士として15日間毎日取組が組まれる。
江戸時代の大相撲初期からある地位であり、必ず最低2名(東西1名ずつ)はおかれなければならない。江戸時代には大関に適した者がいない場合など看板大関といって、ただ大きくて見栄えがするというだけの理由で名前だけの大関にしたケースが多かった。その後、大関の上にさらに地位として付け加えられた横綱と共に、その地位(昇進および陥落)を厳密に管理されるようになった(後述)。そのため、実力者が不在のときは大関が1人以下になるが、その場合は横綱が「横綱大関」と名乗って形式上は大関を兼ねる。横綱も含めて1人以下になった場合は、定説としては関脇以下から補充しなければならないものとされてきた。現在までのところそのような事態は発生していないが、1横綱1大関となっていた2023年3月場所にて大関・貴景勝が3勝3敗で途中休場したため、同年5月場所にてその事態が発生する可能性があった(同場所にて貴景勝が負け越し、かつ昇進の目安を満たす力士が出なかった場合、あるいは横綱・照ノ富士が引退した場合が該当)。なお現理事長の八角は、大関空位時の関脇以下からの補充に関しては否定的な見解を示しているため、今後は状況次第では横綱と大関の合計人数が1人または不在になることもありうるという可能性も示唆される。
大関昇進後の待遇としては、協会から支給される月給が250万円となり、関脇の時よりも大幅に増える。新大関に昇進すると、名誉賞として50万円が授与される。ただし大関から陥落した力士が大関に復帰(再昇進)した場合は授与されない。また両国国技館の地下駐車場に直接自家用車を乗り入れ、駐車することも可能となる。さらに、海外場所など、協会の公式の移動においては、飛行機はファーストクラス、鉄道(新幹線)ではグリーン席(グランクラスは不可)に座ることができる。化粧廻しの馬簾の色に紫を使えるのも、基本的には大関以上の特権である。国技館では、原則大関以上の力士がプロデュースした弁当が販売される。また師匠の了承があれば、引退後1年以上の経過をもって部屋を新設することもできる(これについては引退時に大関から陥落していた場合であってもこの権利は維持される)。
日本国籍を持つ大関力士は、協会が財団法人であった時代には、評議員として役員選挙の投票権をもっていた。横綱・大関の日本国籍をもつ力士の中から、地位・年齢を加味して4名まで選出されていた。この権利は、協会が公益法人となったときに廃止された。
大関としての責任を果たしたとの印象を与える成績としては、一般的には10勝以上(2桁勝利)が目安とされるが、実際にはこのほか相撲内容やその他の状況で一概には言えない面もある。実際には大関として9勝6敗や8勝7敗の成績も決して珍しいことではなく、この成績でも勝ち越しに変わりはないため大関からの陥落に繋がることはなく、特に角番の状態での8勝目は翌場所の大関陥落を免れる形となり、「角番脱出」と呼ばれるが、9勝6敗や8勝7敗のような成績が続く大関は、俗に「クンロク」「ハチナナ」と呼ばれ、大関の地位は長期間維持するがいつまでたっても横綱にはなれないという意味もあり、あまり名誉なこととはされていない。横綱ほど風当たりは強くないにせよ、頻繁に負け越しや休場で角番になっては9勝6敗や8勝7敗で辛うじて角番を脱出することを繰り返すような大関はなおさら批判に晒されがちである。
番付編成を所管する審判部が、ある力士を大関に昇進させたいと判断した場合、審判部長が日本相撲協会理事長に当該力士の大関昇進の可否を審議する臨時理事会の開催を要請し、理事会での審議の結果、当該力士の大関昇進が決定すると、協会から使者が当該力士のもとへ派遣され、昇進伝達式が行われる。当該力士は、翌場所の番付発表を待たずに、この時から大関として扱われる。よって昇進伝達式の後、翌場所の番付発表までは、大関ではあっても同じ大関の中での順位(東か西か、あるいは正位か2枚目以降(以前の張出)か)がまだ発表されていない状態となる(ただし近年のケースでは、翌場所の番付では新大関は角番大関の有無に関わらず原則同じ大関の中で最下位となる)。大関の推挙は、理事会の賛成を経て満場一致でなければならないとされ、理事会で異議があったとしても昇進者は慣例的に「満場一致で賛成」された扱いとなる。現行制度下では理事会において大関昇進が否決された例はなく、審判部長が臨時理事会の開催を要請した時点でマスコミ報道においては大関昇進が内定していると扱われている。
なお、関脇が大関の地位を狙うことを「大関取り」と呼ぶ。協会内では「昇進の機運」という表現が用いられる。場所前から「大関取り」の話題が持ち上がることもあれば、場所前は「大関取り」と見られていなかった力士が好成績のため場所途中から「昇進の機運」が急浮上する事例も見られる。
大関昇進については横綱昇進における横綱審議委員会の内規のような明文化された基準は特になく、マスコミが推測するおおよその目安も時代により変化している。もっとも、「番付は生き物」の語が示すように、協会は一貫して協会が目安を持っていること自体を否定して、勝星数だけでなく相撲内容や印象、優勝やそれに準ずる成績の有無、直前場所の成績、それぞれの場所での番付(関脇・小結・前頭の別)や10勝以上に乗せているか否かの別、番付編成上のバランス等も含めて総合的に判断される。そのため、勝星数で過去の例を下回りながら大関に昇進した力士、勝星数で目安を満たしながら大関に昇進できなかった力士が少なからず存在する。 なお、明文化されているわけではないが、例えば直近3場所の合計勝星が「全勝、7勝、13勝」という成績だった場合、合計35勝になるので目安上は昇進条件を満たしているが、負け越しが含まれているので昇進については議論されないだろうと考えられている。もし直近3場所の中で負け越しが含まれている場合、直近2場所で綱取りと同様に連続優勝することが代わりの昇進条件とされると考えられる。ただし、この場合は負け越した場所が3場所前でなければならない。なお、これまで3場所連続全勝による「直前3場所合計45勝」で大関に昇進した者は存在しない。
昭和期においては「3場所連続で三役(関脇・小結)の地位にあって、その通算の勝ち星が30勝以上」が大関昇進への目安とされてきた。
1972年(昭和47年)3月場所を終えた長谷川の直前3場所は、全て関脇で8勝-10勝-12勝(優勝)の合計30勝を挙げ、目安を満たしかつ直前場所で優勝したが、この場所12日目の大関同士の一番(琴櫻-前の山戦)が相撲競技監察委員会から初の無気力相撲の警告を受けたことから場所終盤の話題はそちらに集中し、長谷川の大関昇進の機運は全く盛り上がらなかった。次の5月場所も長谷川は直前3場所を10勝-12勝(優勝)-8勝の計30勝だったが再度見送られ、その後の長谷川は好成績を挙げられず、結局大関昇進は果たせなかった。
長谷川の例以降は、大関の資質や目安が昇進の問題にされる事例はしばらくなく、このころは、「30勝以上」からのちの「33勝以上」へと目安が変化する過渡期であるといえる。
この時期に33勝に満たずに昇進を果たした例として、1980年(昭和55年)1月場所を終えた増位山(太)は直前3場所を8勝-11勝-12勝(次点)の計31勝であったが、この前場所から大関が貴ノ花1人だけという「異常事態」であったことから、高砂審判部長(元横綱朝潮)は「今場所の十二勝の成績や大関が現在一人である点を考慮する」と述べ、大関昇進が認められた。1981年(昭和56年)9月場所を終えた琴風は直前3場所を9勝-10勝-12勝(優勝)の計31勝であるが、この場所は大関不在という「珍番付」であり、優勝を決めた14日目の時点で「待ったなしで大関」とされた。1985年(昭和60年)7月場所を終えた大乃国は、直前3場所を9勝-10勝-12勝(次点)の合計31勝であったが、鏡山審判部長(元横綱柏戸)は「六場所連続で関脇を守ったことを評価したい」「対横綱、大関の通算成績が五分五分(三十七勝三十八敗)というのは大変なものだ。」と述べ、内容が評価されて大関昇進を果たしている。
平成初期の特殊な例として、琴錦(現・朝日山親方)は1991年(平成3年)9月場所は前頭5枚目で13勝2敗で優勝、小結に戻った11月場所も終盤まで2敗で優勝を争い、二子山理事長(元横綱初代若乃花)は「二場所連続優勝なら、大関昇進を考える余地がある」と発言した。当時は横綱の休場、引退が相次ぎ、世代交代の時期に入っていたことが背景にある。結果、琴錦は千秋楽に破れて12勝3敗、優勝を逃して昇進はできなかった。なお琴錦はその前の1991年(平成3年)1月場所を終え、直前3場所を9勝(小結)-10勝-11勝(2場所関脇)の計30勝とし、旧目安ならば満たしている。
1995年(平成7年)1月場所から1997年(平成9年)1月場所まで、魁皇(現・浅香山親方)は当時歴代最長となる関脇の地位を、13場所連続で保持していた。だが、最高でも3場所合計30勝に留まっており、大関昇進の機会を何度も逃していた。しかし、7度目の大関挑戦だった2000年7月場所において、三役で8勝-14勝(優勝)-11勝の合計33勝を挙げ、当場所後ついに魁皇は念願の新大関と成った。
平成中期以降においては、大関昇進の目安は「3場所連続で三役(関脇・小結)の地位にあって、その通算の勝ち星が33勝以上」で定着している。
2011年(平成23年)11月場所を終えた稀勢の里の直前3場所の成績は、10勝-12勝-10勝で合計32勝であったが、日本人力士が不調(大関以上は前場所昇進の琴奨菊のみ)、直前6場所を全て勝ち越し10勝以上が5場所という安定した成績、横綱・白鵬との幕内対戦が直近6場所で3勝3敗と互角の成績を挙げた事などが加味された。
また、2015年(平成27年)5月場所を終えた照ノ富士は、直前3場所が前頭2枚目で8勝(平幕)-13勝-12勝(優勝)の合計33勝だったが、直前場所での幕内初優勝を果たした事に加えて、前場所で13勝を挙げている事が大関に相応しいと判断され、新大関となった。なお大関昇進の3場所前が平幕の地位だったのは、1985年(昭和60年)11月場所後の北尾(のち横綱・双羽黒。前頭筆頭で12勝3敗)以来29年ぶりだが、3場所前が平幕で1桁勝ち星となると、1983年(昭和58年)3月場所後の朝潮(4代)(前頭筆頭で9勝6敗)以来の32年前までさかのぼる。
令和時代以降も、大関昇進の目安は「3場所連続で三役(関脇・小結)の地位にあって、その通算の勝ち星が33勝以上」で定着している。しかし令和5年秋場所では佐渡ケ嶽審判部長は「33勝にこだわらず、内容をしっかり見る」との見解を示した。
2022年(令和4年)1月場所を終えた御嶽海は直前3場所を9勝-11勝-13勝(優勝)の計33勝で目安は満たすも、3場所前が9勝止まり、三役での連続二桁勝利もこれが初めてで、そもそも場所前に昇進ムードが無かったが、大関陣の成績不振や直前での優勝が評価され昇進に向けた理事会の開催が決定され、大関昇進が決まった。
☆はのちに横綱。◎は優勝、◯は優勝同点、△は優勝次点(タイ記録も含む)、※は三役の地位で3場所通算33勝未満または直前3場所前が平幕上位で昇進した力士。
江戸時代には大関に在位した力士が翌場所に平幕以下に陥落した例も存在したが、当時は現在とは全く違う基準で番付を作成していたため参考にはしにくい。看板大関の制度が存在した時代の番付は必ずしも実力本位のものではなく、また看板大関がそもそも一時的な大関といった扱いのため、実力が大関相応とされる力士が現れた際には地位を明け渡すことが前提であった。看板大関廃止後は実力本位で番付を作成するようになったが、それ以降にも明治時代までは大関に在位した力士が翌場所に平幕へ陥落した例が存在する(最も新しい例は1900年(明治33年)5月場所の鳳凰馬五郎)。明治時代もまだ番付編成は現在と大きく異なっており、一ノ矢藤太郎や大碇紋太郎のように勝ち越していながら降格となった者も存在した。その後も大正時代までは1場所で大関から即陥落も制度上存在し、実際に1場所で降格となった力士も存在する。大関陥落については江戸時代以来長らく明確な基準が無く、特に地位を保証されてはいなかったため、関脇以下の力士との兼ね合いでは大関の勝ち越し降格も当時の感覚では不自然なことではなかった。
1927年(昭和2年)の東京相撲と大坂相撲の合併以来の諸制度の確定の中で大関の地位が確立し、「2場所連続負け越しで陥落」の基準が定着した(ただし、1929年〈昭和4年〉から1932年〈昭和7年〉までの2場所通算成績などで番付を編成していた時代には、必ずしもこの限りではない)。なお、戦前までは大関からの陥落は必ず関脇になるとは限らず、小結まで落とされた例も存在する。また昭和以降大関の力士で陥落したのちに、大関へ復帰を果たしたのは、汐ノ海が最初のケースとなった。
1958年(昭和33年)に、年間6場所制度が実施された時には、2場所では厳しすぎるとして、3場所連続の負け越しで関脇に陥落と改定された。ちなみにこの規定の下で大関から関脇に陥落した力士は松登と若羽黒の2名のみであった。ところが、今度は甘すぎるとする批判が相次ぎ、1969年(昭和44年)7月場所より現行の「2場所連続負け越しで関脇に陥落、直後の場所で(取組日数による現行の規定で)10勝以上を挙げた場合は特例で復帰できる」とする規定が定着した。この現行規定の下で大関特例復帰を果たした力士は、三重ノ海・貴ノ浪・武双山・栃東(2回)・栃ノ心・貴景勝(現役大関)の6人・7例ある。この特例によって大関に復帰した場合は、昇進伝達式は行われない。なお、翌場所の関脇陥落が確定している力士も、翌場所の番付発表の前日までは大関としての待遇を受けられる。
前場所に大関の地位で負け越し、当場所も負け越すと関脇へ陥落する状況の力士は「角番(大関)」と呼ばれている。
基本は2場所連続の負け越しで大関陥落だが、2022年(令和4年)7月場所の御嶽海は、角番大関の状態で2勝5敗8休と成績だけを見ると通常なら関脇に陥落する状況であったが、新型コロナウイルス感染による休場のため、番付編成会議で新型コロナウイルス感染による休場の時点で勝ち越し・負け越しが決まっていなかった力士は番付が据え置きとなったため、9月場所は関脇に陥落せず角番大関の状態を継続して迎えることになった。
また、魁傑と照ノ富士は大関陥落後、この特例によらずに好成績を重ね、通常の昇進基準によって大関復帰を果たした。この両者に対しては大関復帰時にも再度の昇進伝達式が執り行われたが、両名とも新大関時のように決意表明は述べず「謹んでお受けいたします」とのみ述べた。
尚、平成末期~令和初期には、2017年に琴奨菊と照ノ富士、2019年は栃ノ心(2度)と貴景勝、2020年は髙安、さらに2021年には朝乃山、2022年には御嶽海と正代が関脇へ陥落し、翌場所に大関特例復帰のチャンスを懸けている(但し朝乃山は出場停止のため大関特例復帰できず、平幕へと陥落)。特に、2019年9月場所から2020年1月場所まで3場所連続で貴景勝、栃ノ心、髙安と陥落者が続出した。現役引退した豪栄道も引退場所で関脇陥落が決定していたため、それも含めると4場所連続の関脇への陥落者が出たことになる。ちなみにこの3場所の間原則2名とされている関脇の定員のうち1枠を陥落者が占め続けた結果、小結の地位で8→9→9勝と連続して勝ち越した阿炎が続けて小結に留め置かれるという不運が発生している。
かつては、関脇以下へ陥落した元大関が現役を続行する場合、十両への陥落確定を機に引退することが慣例とされ、古くは十両陥落が懸かる場所は「幕内角番」と表現され、そもそも大関在位中に引退するケースが大半だった。花田虎上は2021年9月場所中の自身のコラムで「私のかど番の時は、負け越して陥落したら引退させられた時代でした」と語っていた。元大関が十両に下がるケースは、大受のケースが永らく唯一のケースだったが、2010年代以降、元大関の十両以下への陥落が多く見られるようになり、雅山・把瑠都・照ノ富士・琴奨菊・朝乃山・栃ノ心の6名が十両に在位した。2020年代に入ると照ノ富士や朝乃山のように十両からさらに序二段・三段目へと陥落しながら現役を続行するケースも出てきた。栃ノ心が2023年1月場所で途中休場し十両陥落が確実となった際は引退の可能性に言及されることすらなく、3月場所では当然のごとく十両の土俵に上がった。同場所では再十両の1月場所で14勝を挙げ優勝しながら幕内復帰を見送られた朝乃山と合わせて史上初めて複数の大関経験者が十両に在位し、両者による元大関同士の対戦も実現した。元大関の十両陥落=引退という慣例は事実上消滅したとも言える。
現役引退後、年寄として協会に残る場合は3年間、平年寄ではあるが委員待遇として扱われ、番付では「年寄」の上位に置かれる(序列は委員待遇の平年寄>持ち名跡で襲名した平年寄>借り名跡で襲名した平年寄)。また1997年5月1日以降は、年寄名跡を取得していなくても引退から3年間四股名のまま年寄として残ることができるようになった(この特典は、2007年5月場所前に引退から3年以内の玉ノ井部屋継承を予定していた栃東が初めて利用し、それから約7年後となる2014年3月場所中に琴欧洲が2例目として利用した)。
委員待遇の3年を経過すると主任になるが(貴ノ浪、栃東など。番付上は昇格だが、収入は減る。)、3年以内に審判委員に起用される(魁傑・武双山・出島・千代大海・魁皇など)ことが殆どである。
なお、最高位が大関で引退後相撲協会にとどまらず即退職(廃業)した力士は、戦後では若羽黒朋明(1965年1月場所限りで廃業)、琴光喜啓司(2010年5月場所限り、大相撲野球賭博問題で解雇処分)、把瑠都凱斗(2013年7月場所限り、外国籍(エストニア)で日本国籍を取得せず)、栃ノ心剛史(2023年5月場所中、外国籍(ジョージア)で日本国籍を取得せず)の4名のみである。
横綱のそれほど知られてはいないが、大関の地位でも江戸勧進相撲で初めて木版刷りの縦一枚番付が発行された1757年(宝暦7年)10月場所の東大関である雪見山堅太夫を初代、西大関の白川関右衛門を2代目として、昇進順に代数が与えられている。ちなみに最近では、2024年(令和6年)3月場所に新大関の琴ノ若は255代大関となる。
しかし、この中には、後に横綱に昇進した者や、実際に相撲を取らなかった看板大関も含まれていて、一般にはあまり用いられない。元々相撲興行の中心は大坂・京都であり、宝暦7年以前の番付についても元禄年間の頃からの番付が写本や板番付の形で50場所分近く残されている。たとえば、両國梶之助 (初代)、源氏山住右衛門、谷風梶之助 (初代)、丸山権太左衛門、阿蘇ヶ嶽桐右衛門、鞍馬山鬼市、相引浦之助など、宝暦7年以前にも大関は存在しているが、名大関と云われる彼らは歴代大関には含まれていない。
なお、複数の力士が大関に同時昇進した場合は、横綱と異なり、昇進場所でより上位だった力士を先代としている。前述の雪見山と白川の他、最初期は興行用の看板大関が東西に付け出されることが多かったが、すべて東方が先代、西方が次代となっている(ただし、番付で東方を上位とする認識が定着したのは後の時代のことである)。また、1人の力士が大関から陥落した後に再昇進した場合でも、代数を改めて与えられることは無く、あくまで再昇進という形で新大関の際に与えられた代数が採用される。
なお、東方の力士を先代・上位とする理由は、横綱を「日下開山(太陽の下で大きく聳え立つ山という意味)」と称し、その太陽が東側から昇ることに由来していると考えられている。
年6場所制以降は下記の通りである。横綱に昇進した力士の大関通過場所数についてはこちらを参照。
なお、連続大関在位場所数での見方をすれば、貴ノ浪・武双山・栃東・貴景勝・栃ノ心の合計5人が、2場所で関脇陥落の最短記録を作っている。その内、貴ノ浪と栃ノ心は大関特例復帰後に再陥落、武双山と貴景勝は新大関から陥落直後に特例復帰を果たし、栃東は再大関で陥落するも特例再復帰を達成した。通算大関在位場所数(現役大関の貴景勝を除く)では、それぞれ貴ノ浪37場所、武双山27場所、栃東30場所(番付上は31場所)、栃ノ心7場所となる。なお貴ノ浪は、連続大関在位数の長期(35場所)でも短期(2場所)でも、歴代ランキングに顔を出す珍記録も持っている。
2012年(平成24年)5月場所において、大相撲史上初めての6大関が在籍となる。四股名は開始場所時点のものである。
6大関に次ぐ5大関は、現在まで17例がある。四股名は開始場所時点のもの。
2021年現在では、4横綱6大関の大関以上10人も前例に照らしてありえるが、これまでの最多は8人で4横綱4大関が2例、3横綱5大関が2例となっている。
昭和以降で大関が一人だけ在位し、東西に揃わない状態だった例はこれまでに13例ある。
番付面で「横綱」の地位が現れて以降で、「大関空位(不在)」となったことが2例ある。いずれも前場所に在位していた大関が横綱に昇進して発生したもので、全員が同時に引退や、関脇に陥落して発生した例はまだない。
(注)2回以上の対戦経験及び対戦相手の最高位が大関である力士との対戦成績、かつ、対戦者のどちらかあるいは両者が引退力士であるものに限る。
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