山本 和範(やまもと かずのり、1957年10月18日 - )は、福岡県小倉市(現:北九州市小倉北区)出身の元プロ野球選手(外野手)。1994年シーズン後半戦から1995年シーズンまでの登録名はカズ山本。現在も福岡県在住。
現在は吉本興業スポーツ部に所属し、カズ山本の芸名でタレント活動する傍ら、社会人野球クラブチームの福岡オーシャンズ9の監督を務めるなど多方面で活躍している。
北九州市立戸畑商業高等学校(現:北九州市立高等学校)を経て、1976年ドラフト5位で近鉄バファローズに投手として入団。背番号は47。入団年度が通常の高卒選手に比べ1年遅れているのは高校1年の際に単位が足らず留年した事が原因である。
入団直後に外野手へ転向。入団4年目にキャンプから好調でオープン戦で打撃ベスト5入り、開幕戦となった南海戦ではスタメン出場を果たしたが3三振で終わった。その後16打数凡退で5月10日の西武戦で松沼雅之からプロ入り初本塁打を放った。二軍では3年連続で打率3割を記録するが、初本塁打以降は一軍では結果を残せず、1982年に戦力外通告を受けた。
引退して福岡への帰郷を決意していたが、同僚(同期入団)だった久保康生に引き留められ大阪に残り、久保から紹介されたバッティングセンター(キンキクレスコ・池田バッティングセンター)でアルバイトをしながら練習していた時期に、当時南海ホークス監督の穴吹義雄から誘われて1983年、南海に入団。背番号は59。近鉄二軍時代、南海二軍監督だった穴吹はウエスタン・リーグで対戦する山本の実力を高く評価していて、他球団の選手にもかかわらずアドバイスを与えていた。そして、自身の南海二軍監督から一軍監督への異動と、山本の近鉄からの戦力外通告が重なり、山本の南海への入団につながった。
南海入団後は山本一義打撃コーチの指導で頭角を現し、練習のし過ぎで過労で倒れて入院するほどの努力が実り、後述の右耳の難聴を乗り越え、背番号29に変更した1984年に右翼手のレギュラーを獲得。7月14日のロッテ戦(川崎球場)では、元投手らしい自慢の強肩と正確な送球で、1950年の2リーグ制以降では日本記録タイとなる1試合3補殺を記録。1985年5月23日、古巣の近鉄バファローズ戦では、恩人・久保康生と対戦した際、恩に報いる先制2ランを放ち、その後の打席で満塁、ソロの3本塁打計7打点をマークし、チームの勝利に貢献した山本は、初めて130試合フル出場を果たした。1986年にはオールスターゲームに監督推薦で出場し、ゴールデングラブ賞を受賞。
その後、南海ホークス・福岡ダイエーホークスで門田博光、佐々木誠らと共に主力選手として活躍、類い稀な勝負強さを発揮した。南海がダイエーに身売りし、フランチャイズが大阪市(大阪スタヂアム)から福岡市(平和台野球場)へ移転した際、読売テレビの取材で「私自身大阪球場が最高の球場だと思っておりましたもので、非常に残念です」とコメントした。また、後に近鉄に復帰したにもかかわらず「最高の野球ファンはホークスファン」と公言していた。
1989年の福岡移転以降は、数少ない地元福岡県出身の選手ということもあり、チーム随一の人気選手であった。1994年シーズン途中の5月中旬、長年その顔つきからドラキュラを略した「ドラ」と呼ばれていた自らのニックネームについて「学校で子どもがいじめられる」という理由で球団に登録名の変更を申請、約2か月後の7月25日の試合から登録名をカズ山本に変更し出場、『バントをしない2番打者』として打率でイチローに次ぐリーグ2位、かつキャリアハイの打率.317の成績を残し、同年末の契約更改で年俸が2億の大台に達する。
1995年、開幕早々左翼手としてプレー中に右肩を亜脱臼し、戦線離脱。ホークス移籍後最低となる年間僅か46試合の出場で、成績も打率.201、本塁打0に終わる。38歳という年齢や2億円を超えていた年俸が原因で、事実上の戦力外通告を受け、自由契約となる。
1996年に入団テストを受け、近鉄時代の先輩でもあった佐々木恭介監督は「あいつは若手の手本になる」として古巣・近鉄への移籍が決まった。背番号をホークス時代の29を逆にした92に変え、同時に「2億円もカズ山本も福岡に置いてきた。近鉄は古巣というよりルーキーの気持ちで頑張る。会社がいらないと言うまでやりたい」と登録名を本名に戻した。同年の西武ライオンズとの開幕第2戦に1-0で1点リードの8回に代打として古巣復帰後初出場を果たし、西口文也から見事に代打本塁打を放ち、華々しい移籍デビューを飾る。本塁生還した山本を最敬礼で迎えた佐々木監督は試合後に「実は采配ミスだった。それをあいつ(山本)は見事に帳消しにしてくれた」という言葉で絶賛した。
これを機に近鉄でも欠かせぬ存在となり、オールスターゲームでは、それまでは監督推薦での出場だったが、初めてファン投票で選出され、古巣の福岡ドームで藪恵壹から決勝ホームランを放つ。MVPとしてお立ち台に上がった山本は、インタビュアーの田久保尚英から「昨年までプレーしていた福岡ドームでのホームラン」について聞かれ、「まさか打てると思ってもいませんでしたし、まぐれですよ」と涙を流した。その後もDHや代打として、近鉄で出場を重ねた。
1999年シーズンは、シーズンを通して一軍へ昇格することなく、球団側は42歳の山本を自由契約にして引退を勧めたが、山本は現役続行を宣言。9月30日に一軍に昇格し、同日の福岡ドームでの対ダイエー戦に指名打者で先発出場。山本の近鉄退団を知っていた満員のダイエーファンから『山本コール』の大合唱が起こり、南海時代から使われている応援歌がダイエー応援団の集まるライトスタンドからも流れた。山本は最終打席で篠原貴行からカウント0ストライク3ボールで決勝ホームランを放つ。試合後、ダイエーの優勝セレモニーの前に、山本はファンの声援に応え場内を一周した。この光景を見て「これ以上の感動を与えるプレーは、無理だろう」と現役引退を決めた。2度にわたり所属球団から戦力外通告を受けながらも、通算成績1400安打、175本塁打、通算打率.283の成績を残した。
引退後は吉本興業に所属。大阪本社に所属しているが、福岡吉本のタレントらと活動する事が多い。
なお、引退後は福岡県飯塚市・北九州市小倉北区のバッティングセンターで地元の子供たちを対象に毎月2回程度野球教室を行っている。プロ野球マスターズリーグの福岡ドンタクズにも『カズ山本』の登録名で参加しており、社会人野球クラブチームの福岡オーシャンズ9の監督も務めている。また、北九州市八幡西区にある児童館 「子どもの館HOW!?」の館長も務めている。
卓越したバットコントロールとパンチ力が武器の強打者。類い稀な勝負強さを誇り、常に3割前後の打率を残すなど安定感のある打者であった。門田博光の後を打つ五番打者のイメージが強いが、現役晩年の1994年には当時では珍しい攻撃的な二番打者として活躍。「恐怖の二番打者」または「バントをしない二番打者」というフレーズが有名となった。
選球眼が良く、1993年は出塁率で1位の辻発彦と2毛差で2位、1994年もイチローに次いで2位であった。
1984年に右翼手で日本記録タイとなる1試合3補殺を記録するなど元投手らしく強肩で、正確な送球も大きな武器であった。
現役時代、対戦したい投手として津田恒実の名を挙げていた。オールスターゲームの時に津田の方から会いに来て、その時が初対面にもかかわらず気さくに声をかけてくれたという。その2年後に津田の病気を知り、当時チームメイトで津田の親友だった森脇浩司と共に見舞いに行った。その後も山本は津田の病室に見舞いに行き、和ませて勇気付けたという。
津田は1993年7月20日に逝去したが、偶然にもその日東京ドームで行われたオールスターゲーム第1戦で山本はホームランを放っている。また3年後の1996年7月20日に福岡ドームで行われたオールスターゲーム第1戦でも代打で決勝ホームランを放ち、その試合のMVPに輝いている。
漫画家の水島新司は遠戚にあたり、その関係で近鉄入団時に『一球さん』の色紙を贈られている。
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