井伊 直虎(いい なおとら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての遠江井伊谷の領主。
「井伊直虎」という名の人物についての同時代史料は一通の書状しか存在しないが、通説では江戸時代中期の享保15年(1730年)に書かれた井伊氏の家伝『井伊家伝記』において、女性ながら井伊家当主になったと記載された井伊直盛の娘・次郎法師(じろうほうし)と同一人物とされる。次郎法師は井伊直親と婚約したといわれるが生涯未婚で、直親の遺児で後の徳川四天王・井伊直政の養母と伝わる。
なお通説は上記の通りだが、直虎の出自や、直虎と次郎法師が同一人物か否かについては歴史家・研究者によって意見が分かれている(#「直虎」と「次郎法師」との関係に関する議論参照)。
次郎法師は遠江井伊谷城主(国人)の井伊直盛の娘として誕生。母は新野親矩の妹・祐椿尼。生年は定かではないが、天文5年(1536年)前後に誕生したのではないかとする説がある。幼名・俗名は不明。父・直盛に男子がおらず、直盛の従兄弟にあたる井伊直親を婿養子に迎える予定であった。天文13年(1544年)、今川氏与力の小野政直の讒言により、直親の父・井伊直満が弟の直義と共に今川義元への謀反の疑いをかけられて自害させられ、直親も井伊家の領地から脱出して武田領の信濃に逃亡した。井伊家では直親の命を守るため、所在も生死も秘密となっていた。許嫁であった直虎は龍泰寺(のちの龍潭寺)で出家し、次郎法師(次郎と法師は井伊氏の二つの惣領名を繋ぎ合わせたもの)を名乗った。直親は弘治元年(1555年)に復帰して直盛の養子となるが、一族の奥山朝利の娘・おひよを正室に迎えたため、直虎は婚期を逸することになったとされる。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおいて父・直盛が戦死。養嗣子としてその跡を継いだ直親は、永禄5年(1562年)に小野道好(政直の子)の讒言によって今川氏真に殺された。直虎ら一族に累が及びかけたところ、母・祐椿尼の兄で伯父にあたる新野親矩の擁護により救われた。永禄6年(1563年)、曾祖父の井伊直平が今川氏真の命令で天野氏の犬居城攻めの最中に急死。永禄7年(1564年)には井伊氏は今川氏に従い、引間城を攻めて新野親矩や重臣の中野直由らが討死し、家中を支えていた者たちも失った。井伊家の菩提寺である龍潭寺住職の南渓瑞聞により、直親の子・虎松(のちの井伊直政)は鳳来寺に移された。永禄8年(1565年)、『井伊家伝記』に「次郎法師は女こそあれ井伊家惣領に生候間」とあるように次郎法師は井伊家の当主となった。直親らの死去により、次郎法師しか後継者がいなかったのであるため、直盛の未亡人と龍潭寺の南溪和尚が相談の上、「女地頭」を誕生させた。次郎法師と井伊直虎を同一人物とする説に従えば、このとき還俗して「次郎直虎」と名を変えたことになる。
永禄8年9月15日、龍潭寺への寄進状に次郎法師が黒印を捺して寺領を確認した。自分の家の菩提寺ではあるが公的な印判状を出し、書き止め文言が「仍如件」とあるので領主として領域支配に取り組んでいた。また翌年11月には次郎法師の名で、祖父・直平の菩提を弔うために川名の福満寺に鐘を寄進している。
永禄9年(1566年)、今川氏真は井伊谷一帯(井伊谷と都田川)に徳政令を出しているが、2年間実行されなかった。これは井伊氏が氏真の徳政をはねつけていたためとされるが、永禄11年(1568年)ついに徳政令の発動に踏み切らざるを得なくなった。11月9日付けで蜂前神社に徳政実施を伝えた判物には、今川家重臣の関口氏経と連署して「次郎直虎」の署名があり、本文書が「井伊直虎」の存在を示す唯一の発給文書となっている。この背景には、直虎は債権主である銭主方と結託して徳政を施行しようとはせず、農民は今川氏を頼りに徳政の実施を迫っていた状況がある。すなわち、直虎と銭主方による徳政令拒否派と、井伊氏の家老・小野道好と結ぶ祝田禰宜ら徳政令要求派の対立があり、この状況は今川氏にとって井伊家に介入する絶好の機会となったといえる。
小野道好の専横は続き、永禄11年(1568年)には居城・井伊谷城を奪われてしまうが、小野の専横に反旗を翻した井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)に三河国の徳川家康が加担し、家康の力により実権を回復した。元亀元年(1570年)には家康に嘆願し、家康は道好の直親への讒言を咎め処刑する。しかし、元亀3年(1572年)秋、信濃から武田氏が侵攻し、居城・井伊谷城は武田家臣・山県昌景に明け渡し、井平(伊平)城の井平直成も仏坂の戦いで敗死すると、徳川氏の浜松城に逃れた。その後、武田氏と対した徳川・織田連合軍は三方ヶ原の戦いや野田城の戦いまで敗戦を重ねたが、武田勢は当主・武田信玄が病に倒れたため元亀4年(1573年)4月に撤退した。その間、直虎は元許嫁・直親の遺児・虎松(直政)を養子として育てた。天正3年(1575年)、直政が15歳の時に徳川氏に出仕させ、その際に直政は300石を与えられた。
晩年は、母が落飾後に過ごした龍譚寺の松岳院で過ごしたとも、自耕庵で過ごしたともいわれる。天正10年(1582年)8月26日、死去。亡骸は自耕庵に葬られたという。戒名は「月泉祐圓禅定尼」。後年の追善供養による諱名「妙雲院殿月船祐圓大姉」により、自耕庵は妙雲寺に改められた。井伊家の菩提寺である龍潭寺では、次郎法師の墓は直親の隣にある。
祝田郷の有力者宛に徳政令の実施を命する書状に「次郎直虎」の署名が見られる以外に、「井伊直虎」という名の人物についての同時代史料がほとんどないことから、その実態、ひいては性別についても様々な議論、異説が存在している。
井伊直虎=次郎法師(女) とされた根拠は、先述の徳政令の書状の署名より「当時“次郎直虎”と名乗る領主が居た」ことと、戦国時代の井伊直平とその子孫の活躍、井伊直政の幼少期までが叙述される『井伊家伝記』にて、”次郎法師”が同国の国衆・井伊氏の事実上の当主を務め、「女地頭」と呼ばれた、との記述による。当時の一次史料や、『井伊家伝記』自体には次郎法師が「直虎」を名乗ったという明確な記述はない。また、『井伊家伝記』自体も、誤伝を含む地元の伝承をもとにして記述されており、史実とは言い難い内容も多い史料である。特に井伊直親と許嫁であったという点は、直親が信州に逃れた天文13年(1544年)時点で、直親は10歳、直盛は19歳であり、この時その娘(直虎)が生まれていたとしても、出家しようという判断力のある年齢ではないため、史実ではなく創作されたものとする考えもある。大石泰史は、「次郎法師、そして直虎が男性か女性かは断定出来ない」と著書で述べつつも、「同時期に井伊家内部で「次郎」を名乗る人物が二人いたとは考え難く、次郎法師と次郎直虎は同一人物であろう」と推測している。
このような状況下で、2016年(平成28年)12月、京都市の井伊美術館館長・井伊達夫が「『井伊直虎は女性(次郎法師)ではなく別人の男性』と示す史料が新たに確認された」と発表した。それによると、「『井伊直虎』とは今川氏家臣・関口氏経の息子(次郎法師の母方の従兄弟にあたる人物)を「井伊次郎」と名乗らせて当主としたものであり、井伊直盛の娘である次郎法師とは別人である」という。発見された史料は、享保20年(1735年)に編集された『守安公書記』(全12冊)で、その中には寛永17年(1640年)に新野親矩(井伊直盛の妻及び関口氏経の兄弟)の孫で井伊家家老を務めた木俣守安が聞き書きした記録を、子孫の木俣守貞が筆写したという『雑秘説写記』も収められていた。井伊館長が約50年前に骨董品店で入手した史料の中にあり、取材をきっかけに読み返したところ「井伊次郎」の記述を見つけたという。史料内では今川氏真の配下にあった井伊家について記されており、井伊谷の領地が新野親矩の甥で、先述の関口氏経の子である「井伊次郎」に与えられたと後から書き加えられた形での記述があり、これが別人説の根拠とされる。一方で同史料中の記述は「井伊次郎」に留まり、仮名である「直虎」の文字は見当たらなかったという。
小和田哲男は、『守安公書記』が江戸時代に書かれたもので同時代史料でないこと、当該の「井伊次郎」が直虎である記述がないこと、「次郎」は井伊家総領代々の仮名であり、次郎法師が存在する段階で別の人物が「井伊次郎」を名乗るのは考えにくい点を指摘している。また、『龍潭寺文書』中に次郎法師名で発給された印判状があり、出家した次郎法師が一時的にではあれ井伊谷を支配していたことは明らかである」としている。
黒田基樹は、『雑秘説写記』における「井伊次郎」が関口氏経の息子であるという記述について、唯一確認されている直虎の発給文書において直虎との関連性が不明だった関口氏経が連署している理由として十分であるとし、これをもって直虎の出自が関口氏であると「確定されたといってよい」と断じている。また、次郎法師が発給した永禄8年の龍潭寺寄進状において、書式が男性が使用する真名文であること、花押ではなく黒印が用いられていることから、次郎法師は元服前の男子だったと考えられるため、次郎法師は直虎の幼名であったと推定している。
磯田道史は、瀬戸方久宛今川氏真判物によれば永禄11年(1568年)9月においては次郎法師が井伊谷の支配者であったと今川氏が認識していたと指摘し、その上で同年11月の書状に「直虎」の名前が急に登場することから、磯田は武田・徳川の圧力を受けて滅亡寸前だった氏真が、次郎法師が支配する井伊谷に傀儡当主、すなわち直虎を送り込んだが、翌12月の家康の井伊谷併呑と今川家滅亡によって追い出されたと推測した。この主張は、「井伊次郎法師(女性)≠井伊次郎直虎(男性)」という点では井伊達夫と一致しているものの、二人ともが当主の座についているという立場である。
また渡邊大門は、「『守安公書記』『雑秘説写記』は江戸中期に成立した編纂物で、そのまま史実と認めるにはいかず、ほかの裏付けとなる史料による検証が必要であろう」と慎重な姿勢をとっている。
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