デニス・ジョセフ・"ダン"・ブローザース(Dennis Joseph "Dan" Brouthers, 1858年5月8日 - 1932年8月2日) は、アメリカ合衆国ニューヨーク州シルヴァンレイク出身のプロ野球選手(一塁手)。左投げ左打ち。ニックネームは"Big Dan"(ビッグ・ダン)。5つの打撃部門タイトルを複数回獲得するなど、19世紀屈指のスラッガーであった。
発音指標によるとブルーザーズ(BROO-thurz)がより近い。
1879年にトロイ・トロージャンズでデビュー、最初の年は39試合に出場し本塁打を4本放つ。しかしトロージャンズではレギュラーに定着できず、翌1880年は3試合しか出場しなかった。1881年からはバッファロー・バイソンズに在籍、出場は65試合ながら最多本塁打(8本)を記録する。この年の長打率(.541) もリーグ最高であった。
1882年には、打率.368で初めての首位打者となったのをはじめ、リーグ最多の129安打、また出塁率(.403)長打率(.547)でもリーグ最高を記録。翌1883年には159安打、97打点、打率(.374)、出塁率(.397)、長打率(.572) と、5つの部門でリーグ最高の打撃成績を上げ、当時のナショナルリーグ屈指の強打者となった。バイソンズ在籍の5年間は、いずれも長打率がリーグ最高だった。
1885年のバイソンズ球団解散を受け、1886年デトロイト・ウルバリンズに移籍する。デトロイト在籍時は、1886年に2度目の本塁打王となり、1887年、1888年には2年続けて最多得点をマーク。やはり球団の解散でボストン・レッズに移籍した1889年には3度目の首位打者となるなど、ほぼ毎年何かの打撃タイトルを取っていた状態だった。
1890年以降はボストン、ブルックリン・ブライドグルームス、ボルチモア・オリオールズ、ルイビル・カーネルズ、フィラデルフィア・フィリーズなどの球団を渡り歩き、1896年に現役を引退する。この時期は毎年のようにルールが少しずつ改定されていた時期だったが、ブローザースは1881年から1894年までの14年間、ずっと打率三割を維持し続けていた。
1904年、元のチームメイトであったジョン・マグローが、ニューヨーク・ジャイアンツの監督になった際に、ジャイアンツで2試合だけ現役復帰する。成績は5打数でノーヒットだった。同年、ハドソンリバー・リーグのポーキープシー球団でプレーした。年齢は既に46歳だったが、その年の打率は.373だった。
1932年、ニュージャージー州イーストオレンジで死去。1945年ベテランズ委員会によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出された。
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