『鞍馬天狗』(くらまてんぐ)は、大佛次郎の幕末を舞台にした時代小説シリーズであり、主人公の神出鬼没の勤王志士である剣士が名乗る名である。1924年(大正13年)、娯楽雑誌『ポケット』に第1作「鬼面の老女」を発表して以来、1965年(昭和40年)の「地獄太平記」まで、長編・短編計47作が発表された、大衆小説の代表的作品。
幾度も映画化・テレビ化がされ、特に46本にのぼる嵐寛寿郎主演の映画は、鞍馬天狗像を決定づけるものとなった。本項では小説に加え、映画化・テレビドラマ化された作品についても解説する。
大佛次郎(本名野尻清彦)は東京帝国大学法学部卒業後、外務省嘱託で翻訳の仕事をしていたが、演劇にのめり込んで大量の洋書を購入する費用のために、大衆雑誌『新趣味』に西洋の伝奇小説の翻訳を掲載して原稿料を稼いでいた。関東大震災を機に外務省も退職したために生活費も稼がなくてはならなくなったが、『新趣味』も廃刊になり、新しく創刊された『ポケット』の編集長から「髷物」をと言われ、エドガー・アラン・ポーの「ウィリアム・ウィルソン」からアイデアを得た「隼の源次」を書いたところ採用され、ついで以前に『新趣味』に連載したことのあるジョージ・ウーリー・ゴフ「夜の恐怖」(1923年9-11月号)の中の「金扇」に着想を得て「鬼面の老女」を執筆、登場する黒頭巾の武士には謡曲から思いついた「鞍馬天狗」を名乗らせた(1924年5月号)。すると編集長から、鞍馬天狗を主人公にして作品を書いて欲しい、この雑誌の「心棒」にすると言われ、「快傑 鞍馬天狗」シリーズとしてこの年に8作の短編が書かれた。この第2話「銀煙管」で鞍馬天狗が倉田典膳という名前を名乗っている。1925年になると同誌で長編「御用盗異聞」を連載。さらに翌年には「小鳥を飼う武士」を連載した。
鞍馬天狗の人気は高く、1924年に実川延松が鞍馬天狗役(ただし脇役)で『女人地獄』が映画化。1925年には”目玉の松っちゃん”こと当時のスーパースターである尾上松之助主演で5編が映画化された。1927年には『少年倶楽部』で”少年のための”という副題で、杉作少年の登場する「角兵衛獅子」を、伊藤彦造の挿絵で連載し人気となった。これが嵐長三郎(嵐寛寿郎)主演で『鞍馬天狗異聞 角兵衛獅子』として映画化され大ヒットし、嵐寛寿郎の当たり役となって数多くの映画化がされた。頭巾の後ろから髷の出るスタイルも、この作品で長三郎のアイデアで生まれたものだった。また大佛次郎も1926年に『照る日くもる日』、1927年に「赤穂浪士」を新聞連載するなど、活動の幅を広げていった。
『御用盗異聞』以降では、西郷隆盛をはじめとする維新勢力の手段を選ばぬ倒幕活動に鞍馬天狗は懐疑的な態度を持ち、これらについて村上光彦は、大佛が当時のマルクス主義運動にもある種の共感を覚えつつも運動の圏外にとどまり「革命家にとって目的が手段を正当化するか否か」がシリーズに一貫するテーマの一つだと述べており、『角兵衛獅子』からは「明るく、無益な殺生を嫌い、敵にも優しい人間像」、「フェアプレイの理想を追う剣士」が定着した。
1930年代の「地獄の門」「宗十郎頭巾」では、当時警察が共産党に送り込んだスパイ活動に示唆を得たと思われる、組織の裏切り者が題材になっており、またジョゼフ・コンラッドなどの作品の影響も窺える。戦後になって大佛次郎は、かつて寄稿していた文芸雑誌『苦楽』を復刊し、呼び物として『新東京絵図』を連載、明治維新後の1869年の東京を舞台として、ここで鞍馬天狗は海野雄吉という名前の市井の人物として登場する。これは執筆当時に米軍占領下にあった東京の世相を反映しているとも言われる。
また「黒い手型」で鞍馬天狗が語る「いくら、ここで頭を使ったところで、出かけて行って現実に触れるよりほかに、謎の解きようはない」という言葉に寄せて村上光彦は「思索する行動家、行動する思索者。この表現は鞍馬天狗にこそふさわしい」と述べ、「マゲ物の形で、めざすとめざさぬとに拘わらず進歩主義と保守主義を兼ね備えた公約数的な常識を持った人道主義的な文明批評を、究極的において試みている」とも評されている。鶴見俊輔は『大佛が学生時代に吉野作造の思想に共感した大佛が「大佛の理想は、自分のくらしを支えるために書きはじめた鞍馬天狗とははじめは無関係なものだったが、時代の悪化とともに、作者の政治思想がこめられる様になった」と評している。
シリーズの舞台は主に京都・大坂が中心となっているが、作品によっては江戸や横浜、果ては松前といった、遠方の地を舞台としたものもある。生麦事件や蛤御門の変といった歴史上の事件を背景とした作品もあり、明治維新の実在の志士や、敵役として新撰組も登場する。戦後発表された作品には、時代背景を明治維新後としたものもある。
個々の作品の間には明確な関連性が見られない。例外的に、初期の『ポケット』誌に連載された短編は大枠で繋がりをもったあらすじ展開となっており、また第二次世界大戦中に発表された3編の長編のうち、1945年(昭和20年)の「鞍馬天狗破れず」は1943年(昭和18年)の『天狗倒し』の続編となっている。
主人公は、普段は倉田典膳(くらた でんぜん)を名乗っているが、本名ではない。また作品によっては館岡弥吉郎(たておか やきちろう)、海野雄吉(うんの ゆうきち)と名乗っているものもある。その素性は謎が多く、天狗党の生き残りではないかと言われたこともあるが、確証はない。
容姿は、「身長五尺五寸ぐらい。中肉にして白皙(はくせき=色白)、鼻筋とおり、目もと清(すず)し。」と描写されている(「角兵衛獅子」)。アラカンの映画版のように覆面をする描写はない。
日本の将来に思いをめぐらす勤王志士だが、討幕派でいて幕府方を代表する勝海舟と繋がりがあったり、新撰組の近藤勇とも奇妙な交友関係をもつ(原作で天狗が近藤と一対一の対決をするのは「角兵衛獅子」1作のみ)。また維新後は新政府に対して否定的な側面を見せており、権力の批判者であることを貫いている。
剣は一刀流の凄腕。時には短筒も使う。
以下表中、短編と長編は福島行一の種別法による。
『鞍馬天狗』の映画版は、1924年(大正13年)の實川延笑主演の『女人地獄』に始まり、1965年(昭和40年)の市川雷蔵主演の『新 鞍馬天狗 五条坂の決闘』まで、延べ60本近く製作され、天狗は様々な俳優が演じてきた。特に原作からは『角兵衛獅子』、『天狗廻状』が多く映画化されている。
なかでも最も有名なのがアラカンこと嵐寛寿郎(マキノ時代は嵐長三郎名義)主演による『鞍馬天狗』シリーズであり、製作本数は46本と最多である。アラカンが打ち立てた「頭巾をかぶった覆面のヒーローが善を勧めて悪を懲らしめる」という構図は、後代の『月光仮面』や『仮面ライダー』などの「仮面ヒーロー物」の先駆けとなった。
しかし、戦前撮られた『鞍馬天狗』には紛失・焼失してしまい、現在では観られないものが多々ある。
1951年の松竹の「角兵衛獅子」では近藤勇に月形龍之介、黒姫の吉兵衛に川田晴久、その妹に嵐の前妻の萩町子、杉作に美空ひばり、天狗の命を狙う女に山田五十鈴という配役でヒットし、特に美空は嵐も「これまでの杉作とは一味ちごうた」と絶賛する演技で、続く「鞍馬の火祭」「天狗廻状」にも出演し、鞍馬天狗の人気を高めた。
1927年(昭和2年)、封建的な舞台の世界に愛想を尽かし、大阪の青年歌舞伎を脱退した嵐和歌大夫(嵐寛寿郎)は、京都の活動写真制作会社「マキノ・プロダクション」に映画俳優「嵐長三郎」として入社した。
長三郎はここでマキノ省三監督から「このなかからやりたい役を選べ」と雑誌『少年倶楽部』昭和2年3月号を渡される。長三郎は『角兵衛獅子』を読み、「鞍馬天狗をやりたい」と伝えたことにより、『鞍馬天狗余聞・角兵衛獅子』で映画デビューを果たすこととなって、同時にはまり役となった。
翌1928年(昭和3年)、長三郎はマキノを脱退して「嵐寛寿郎」(アラカン)と名乗り、以来、「鞍馬天狗」はアラカン自身の立ち上げた「嵐寛寿郎プロダクション」の代表的主演キャラクターとなった。寛プロ解散の後は、東亜キネマ、新興キネマ、日活、新東宝、宝塚映画、東映京都と各社を股に掛け、シリーズ主演を続行。アラカン扮する鞍馬天狗が敵を次々と斬り倒すその壮快なチャンバラ劇は長きに渡り大衆を魅了し続けた。アラカン自身によると、戦前から戦後にわたり、主演した『鞍馬天狗』映画は前後編含め総計46本にのぼるという。
アラカンはこの小説の映画化にあたって、「覆面の怪剣士」という独特のスタイルを創り上げた。この創意工夫はアラカンの自信に裏付けられたものだった。
「チャンバラこそ時代劇映画の真髄である」と考える「剣戟スタア」のアラカンにとって、映画の「鞍馬天狗」はアラカンのオリジナルであり、自身の代表的キャラクターだった。戦前戦後にわたり、何度も経済的な苦境に立たされた際も、颯爽鞍馬天狗の登場する新作映画はその都度大当たりして、アラカンを助けてくれた。アラカンの『鞍馬天狗』映画は映画評論界からは無視され「B級品」として一段低く扱われ続けたが、常に庶民に支えられていた。
アラカンは1950年(昭和25年)にGHQの「チャンバラ禁止令」が解かれると、立て続けに松竹と新東宝でシリーズを再開。1953年(昭和28年)、新東宝の『青銅鬼』では親友の大河内傳次郎と組んで本格的なチャンバラ死闘を演じ、チャンバラ禁止令の欝憤を晴らした。「やはり立ち回りだ。天狗はそれで人気が落ちなかった」。
この1953年、アラカンは東映京都でも萩原遼監督で『疾走雲母坂』、『危うし!鞍馬天狗』を撮ったが、ここで日本文藝家協会から思わぬ「待った」がかかった。1953年10月20日の封切りを前に、「無断映画化である、上映を中止せよ」と抗議してきたのである。アラカンにとってこれはまさに青天の霹靂だった。
アラカンの『鞍馬天狗』は、戦前・戦後を通じて庶民の間で大人気のシリーズだった。しかし、この状況に不満を抱いていた人物がいた。他ならぬ原作者・大佛次郎である。東宝の渾大坊五郎はもと寛プロの制作部長で、アラカンとは古い付き合いだったが、この渾大坊が大佛の代理人として、強引にねじ込んできた。
大佛は「第一に著作権無視である」、「第二に原作を勝手に書き変えて題名だけ盗んでいる」、「第三に映画の鞍馬天狗は人を斬りすぎて、原作者の意図に反している」等の理由を挙げて非難し、アラカンが演じる『鞍馬天狗』の制作中止を要求。アラカンは直接談判を考えたが、映画界の裏事情を考えて会社同士の話し合いに任せた。結局、東映京都ではあと一本『逆襲!鞍馬天狗』を撮って終わり、続いて宝塚映画で二本撮ってほしいとの要求となった。宝塚映画は東宝の子会社であり、ようするに東宝は『鞍馬天狗』が欲しかったのである。
翌1954年(昭和29年)、アラカンは宝塚映画で二本『鞍馬天狗』を撮ったが、しばらく大佛の抗議でシリーズが止まってしまう。
一方、大佛は自ら「天狗ぷろだくしょん」を設立してプロデューサーに就任し、同年より東宝で『次郎長三国志』シリーズの清水次郎長役で知られる小堀明男の主演による『新鞍馬天狗』シリーズの制作を開始し、同年10月に『新鞍馬天狗 第一話 天狗出現』を封切。この作品には「アラカンの鞍馬天狗なら5本は撮れる」と言われた程の潤沢な資金が投入され、以降のシリーズ作品でもそうであったと言われる。
この『新鞍馬天狗』は原作者自ら手掛ける映画作品として、当初こそ話題にはなった。が、実際に完成した作品は、小堀の天狗姿とチャンバラシーンが常にアラカンと比較され酷評ばかりで、また大佛の人選による配役にも無理があり(例えば、30代前半の青年剣士として描かれるべき近藤勇に当時50代で老け役も演じていた志村喬を起用する、など)、さらにクライマックスでは天狗が拳銃を構え大儀を唱えるだけで敵が戦うことなく退散してしまう、といった具合に、大衆が好む時代劇の骨法や様式をまるで無視したものであった。さすがにこうした作品が成功する道理はなく、興行面で不振を極め、「日本映画史に残る大失敗作」「大佛が作家としての自身のキャリアに自ら疵を付けた」と酷評される悲惨な結果に終わった。また、巻き添えとなる形で、天狗役を演じた小堀にとっても俳優キャリアの疵となってしまった。
大佛プロデュース・小堀主演の『新鞍馬天狗』シリーズの興行成績は惨憺たるもので、作を重ねる毎に映画館サイドからの大佛に対する不満の声だけが増えていった。結局「大駄作」という評を覆す事には程遠く、全10作を予定するも、1955年(昭和30年)6月公開の第3作『新鞍馬天狗 夕立の武士』を最後に打ち切りとなる。
この『新鞍馬天狗』で3度も煮え湯を飲まされる格好になった映画館サイドは、その「損失補填」を理由に大佛にアラカンの鞍馬天狗の復活を強硬に要求した。自らプロデュースした作品で与えた損失が原因であるだけにさすがの大佛もこれは呑まざるを得なかった。
1956年(昭和31年)、これを受けて宝塚映画での、アラカン版『鞍馬天狗』が再開。しかし、『御用盗異変』、『疾風!鞍馬天狗』を並木鏡太郎監督で撮ったところで、ついにシリーズ打ち止めとなってしまった。
ただでさえ反骨漢のアラカンは、「天狗も歳をとりました」という名言を残してさっさと天狗役を降りてしまい、アラカンの鞍馬天狗は打ち止めとなった。
その後、宝塚映画で鞍馬天狗の映画は制作されることなく、東映京都『鞍馬天狗』で東千代之介、大映京都『新・鞍馬天狗』で市川雷蔵が天狗を演じたものの、千代之介は4作、雷蔵も2作で終了といずれも長続きしなかった。
本作を原作としたテレビドラマも幾度となく放映された。
テレビドラマで鞍馬天狗を演じた俳優は以下の通りである。
Owlapps.net - since 2012 - Les chouettes applications du hibou