泰緬鉄道(たいめんてつどう)は、太平洋戦争中にタイとミャンマーを結んでいた鉄道。旧日本陸軍によって建設・運行されたが、戦後英国軍が日本軍捕虜に命じて部分的に撤去され、現在はナムトックサイヨークノイ停車場で途切れている。日本軍の公式名称は泰緬連接鉄道。英語名称は「Thai-Burma Railway(またはBurma Railway)」だが、大量の死者を出した過酷な建設労働から、英語圏ではむしろ「死の鉄道 (Death Railway) 」の名で知られる。存置部分はタイ国有鉄道南本線ナムトック支線として運行されている。深い自然の中を通っているため風光明媚であり、「チョンカイの切り通し」「タム・クラセー桟道橋(アルヒル桟道橋)」など見所も多いため、観光客に人気の路線となっている。
バンコクのトンブリー駅(旧バンコクノーイ駅)を始発駅とし西部へ進みナコーンパトム県、ラーチャブリー県、カーンチャナブリー県を通り、ミャンマー(タンビザヤを経て)・ヤンゴンへ至る。現在では泰緬(タイ・ミャンマー)両国の国境付近の鉄道はイギリスによって撤去させられたため、タイ側ではトンブリー駅(旧バンコクノーイ駅)からナムトック駅(臨時列車がナムトックサイヨークノーイ停車場まで運行されることもある)まで1日2往復の列車が運行されている。
この鉄道の建設は20世紀初頭の英領ビルマ時代にイギリスが検討していたが、地形が複雑で建設を断念した。戦時中の1942年、旧日本軍は海上輸送の危険を避け、またビルマ戦線の物資輸送のためのルートを確保するために建設を開始した。建設計画はイギリスが検討した5つの案(チェンマイ - トングー、ピッサヌローク・ターク - モールメン、現在のルート、カンチャナブリー - タボイ、チュンポン - メルグイ)の内の一つを踏襲している。背景としては、当時ビルマとタイの間にマラッカ海峡経由の海上輸送路以外に補給に適したルートが少なく、その海上輸送路もミッドウェー海戦などで日本側が劣勢になったため、海上輸送路とは別に陸上輸送路が求められたことによる。
発案者は、当時タイに駐留していた第25軍第2鉄道監部の広池俊雄中佐で、1941年11月に参謀本部の辻政信中佐によって大本営にプランが持ち込まれた。
建設は迅速さを要求されたため、ビルマ側・タイ側両方から開始した。ビルマ・タイには既に多少の鉄道が建設されており、タイ側は1942年7月5日に南本線のノーンプラードゥック駅から、ビルマ側は同年6月28日にタンビュザヤより建設を開始した。建設の作業員には日本軍1万2000人、連合国の捕虜6万2000人(うちイギリス人6904人、オーストラリア人2802人、オランダ人2782人、アメリカ人133人の合計1万2621人が死亡)のほか、募集や強制連行による「ロウムシャ」と呼ばれたタイ人労働者数万人(正確な数は不明)、ミャンマー人18万人(うち4万人が死亡)、マレーシア人(華人・印僑含む)8万人(うち4万2000人が死亡)、インドネシア人(華僑含む)4万5000人が使役された。戦時下の突貫工事であったため、建設現場の環境は決して良いとはいえず(いわゆるタコ部屋労働)、特に工事の後半の1943年には翌年のインパール作戦に向けての準備に加え、敵潜水艦によって海上輸送が困難になったため、雨季にも関わらずさらなる迅速さが要求され、一日10時間以上の労働作業になった。虐待、食料不足からくる栄養失調とコレラ・赤痢・天然痘等の伝染病、マラリア、熱帯潰瘍にかかり、死者数が莫大な数に上り、これは「枕木一本、死者一人。」と言われるほどで、戦後に戦争犯罪として問題となった。待遇について、連合軍捕虜らが頻繁に激しい暴行にさらされていたことや終戦で救出されたとき骨と皮だけのように痩せ細っていたこと等が知られるが、東南アジア各地から労働者の証言はまちまちで、全体としてみれば連合国軍捕虜以上の率で死者が出ていたと考えられるが、十分な食事が出なかった、食事の量も十分でタイ米はおいしかった、劣悪で食べられるようなものでなかった等様々である。キャンプによって扱いが全く違っていたと考えられている。犠牲者数は日本側とタイ・ミャンマー側の調査で食い違いが出るが、総数の約半分といわれる。特に巨大な一枚岩を掘り下げるなどしたヘルファイアー・パスと呼ばれる箇所や、断崖絶壁に沿わせるように木橋を建設したアルヒル桟道橋など未開発の地帯では、工作機械不足と突貫工事による人海戦術のため死者が多かったという。こうした労働者の多大な努力と犠牲のもと、当初5年はかかるといわれた建設が1943年10月に完成した。
完成後、1944年3月に開始されたインド国民軍と日本軍協同のインパール作戦で重要な役割を担った。
連合軍の爆撃機により空爆が行われ、橋は破壊・復旧を繰り返していたが、鉄道輸送は完全には止まらなかった。
当初の予定では一日の輸送量3,000 tの予定であったが工期短縮のため1,000 tになり、雨季の豪雨や空襲によりそれさえ達成できなくなった。突貫工事における欠陥により脱線事故が多発し沿線のあちこちに機関車や貨車の残骸が放置されていたという。
戦後、泰緬鉄道建設を担った鉄道連隊に所属する兵士や連合軍捕虜を取り扱った俘虜収容所の関係者らが、BC級戦犯として「捕虜虐待」などの戦争犯罪に問われ、処刑された(泰緬鉄道建設捕虜虐待事件を参照)。「ロウムシャ」の徴集には銃剣をつきつけ脅かして強制連行した例が見られるという。捕虜の動員については、保養地に行くと聞かされたので騙されたと感じたという捕虜の証言がある。また捕虜や労務者の輸送には赤十字の標識がされていない輸送船(いわゆるヘルシップ)が使用されたため、こちらも連合国軍の潜水艦の襲撃により大きな死者が出た。
日本軍の降伏後、1946年1月16日、イギリス軍司令部はニーケ - ソンクライ間4kmのレールの撤去を地区担当の日本軍鉄道隊に命じた。以後、ビルマ側の泰緬鉄道は順次取り外され、レールはモーラミャインに集結され、路盤は元のジャングルに返された(イギリスはこの鉄道がシンガポール港の重要性を下げる要因になると考えた)。イギリス政府はタイ政府に対し、撤去分断された泰緬鉄道を5千万バーツで売却した 。この結果、ミャンマー側の全線とタイ側の国境から3分の2にあたる区間が廃止となった。また、タイ側の一部はダムに沈んでいる。
なお、戦後の極東国際軍事裁判で、木村兵太郎元陸軍次官の死刑判決については、この鉄道建設で多数の死者が出ていたことをビルマ方面軍司令官として知らなかったはずがない、東條英樹元首相の死刑判決については、東條が働かざる者食うべからずとして連合国軍捕虜に鉄道建設を行わせ、その結果死者を出したことが、それぞれ主要な判決理由となっている。(英米法系の国では、重要な保護責任のある者がそれに反して故意あるいは重大な過失や怠慢で他者を死なせた場合、謀殺・故殺と同視される。)
現在、建設の中心部となったカーンチャナブリー市内には、連合国捕虜の共同墓地や戦争博物館が建設されている。
現在、ミャンマー政府は、泰緬鉄道の廃線部分に新たな鉄道と幹線道路を建設する計画を進めている。
観光地として整備されているのはタイ側であり、ミャンマー側の路線跡は紛争地帯の只中にあるため、ほとんど整備されていない。
1979年6月に2両のC56形蒸気機関車(31・44号機)が帰還を果たし、日本国内で保存されている。31号機は東京・九段の靖国神社内の遊就館で静態保存されており、44号機は静岡県の大井川鐵道で動態保存されている。
44号機は同月29日に大井川鉄道(現・大井川鐵道)へ搬入され、同鉄道で動態復元され、1980年1月29日より運用されていた。動態復元当初はタイ国鉄仕様であったが、同年4月に日本国鉄仕様に復元(切り詰められた運転台屋根や炭水車の後端部形状などに、タイ時代の仕様が残る)された。しかし、老朽化が激しいことから、2003年12月17日付で休車。同鉄道の千頭駅構内にしばらく留置されていたが、2006年9月より再整備され、外観もタイ国鉄仕様に戻された。翌2007年9月4日に復活火入れ式が行なわれ、同年10月7日に運用を再開した。2010年9月中旬までこの仕様で運用され、同月中に行われた定期検査で再び日本国鉄仕様に復元。翌2011年1月29日に運用を再開。2015年には『きかんしゃジェームス号』に改装され、期間限定で運用された。
またタイ国内にも車両が多少残されており、クワイ川鉄橋近くには蒸気機関車719号機(旧C56 23 1935年汽車製造製、製造番号1352)および蒸気機関車804号機(1915年Kitson製、製造番号5162)の2両、ナムトックサイヨークノーイには蒸気機関車702号機(旧C56 4 1935年三菱重工製、製造番号156)がそれぞれ静態で保存されている。
JEATH戦争博物館には蒸気機関車175号機(1919年N.B.L.Co.,Hyde Park製、製造番号21758)また、捕虜を運ぶのに使った貨車C.G.1460がそれぞれ静態保存されている。
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