『日本歌謡大賞』(にほんかようたいしょう)は、1970年から1993年まで開催された日本の音楽に関する賞である。
略称は「歌謡大賞」。主催はTBS以外の放送局8局(下記参照)が結成した「放送音楽プロデューサー連盟」。毎年フジテレビ・日本テレビ・テレビ朝日・テレビ東京・ニッポン放送・文化放送、RFラジオ日本、エフエム東京が協力制作し、テレビ中継は参加4局が持ち回りで担当した。
番組名は『輝け!日本歌謡大賞』(かがやけ にほんかようたいしょう)。
TBSテレビは1969年の大晦日に『日本レコード大賞』授賞式を生放送し、高い視聴率を得るようになった。これを見たTBS以外の他局は制作放映権の各局持ち回りを提案するも、TBSから固辞されたため、"打倒レコード大賞"を目標にして集結し、1970年7月4日に「放送音楽プロデューサー連盟」を結成、2日後に『日本歌謡大賞』を制定した。
第1回授賞式は1970年11月9日に開催されるもテレビ中継されず、東京ヒルトンホテル真珠の間で『放送音楽プロデューサー連盟懇親会 日本歌謡大賞受賞パーティー』が開催された。その模様はVTRに収録され、総集編や名場面などの映像素材に用いられている。また、同日放送の『NTV紅白歌のベストテン』内で表彰式を行い、受賞者が出演し歌唱した。司会は第1回から3回までは前田武彦が担当、第4回から終了までは高島忠夫が担当した。
1971年の第2回から全国ネットで放送されることとなったが、放送枠が確保されずに当日の生中継ではなく後日録画放送の地域も散見された。1975年の第6回までは通常番組を休止して放送し、1976年の第7回から日本テレビは『木曜スペシャル』、フジテレビは『火曜ワイドスペシャル』枠で、テレビ朝日は1982年の第13回まで『水曜スペシャル』、1986年の第17回は『新・水曜スペシャル』、1991年第22回は金曜19:30 - 21:54で、東京12チャンネルは通常番組を休止して、1992年第23回は『火曜ゴールデンワイド』(同『火ワイ』)枠でそれぞれ放送していた。なお1979年の第10回・東京12チャンネル(当時)制作回から音声がステレオ化され、また、1992年の第23回・テレビ東京制作回はクリアビジョン放送を実施した。
1988年の第19回は昭和天皇のご容態を配慮して開催せず、担当予定のフジテレビが総集編を放送した。翌89年の第20回から放送時間が3時間に拡大、ただし局の都合で放送時間が2時間半になることもあった。これ以降は歌手側も賞を辞退する事例が頻発し、番組視聴率も低下する。
1994年4月26日に主催者の放送音楽プロデューサー連盟は総会で『日本歌謡大賞』の開催取り止めを正式決定し、23年間の歴史に幕を下ろした。当時の日本歌謡大賞運営委員長の吉岡正敏(日本テレビプロデューサー)によると「歌謡という言葉で、一年を振り返る音楽を捕らえることの限界を認めた」という。
番組オープニングとエンディングには、保富康午作詞・広瀬健次郎作曲・前田憲男編曲のテーマソング「日本歌謡大賞讃歌」が東京混声合唱団のコーラスで放送されていた。
1977年7月9日放送の『第8回日本歌謡大賞新人祭り』(日本テレビで放送)において、審査員投票の結果が放送前に外部に漏れ、1977年7月7日付の『スポーツ報知』で取り上げられた。投票結果とレコード売上等の実績との乖離が著しいことが疑問視され、投票権を持つのが放送局関係者であることから、放送局傍系の音楽出版社が楽曲の権利を持つ歌手が優遇されているのではないかという疑惑が生じた。放送当日に再投票を行い、入賞を上位10組から31組全員に、番組内で歌う歌手を10組から18組に拡大することで対応した。
各賞の選考は後述される放送音楽プロデューサー連盟加盟在京テレビ・ラジオ8社と準会員(NNS・FNS・ANN・TXN・NRN・JFN・および独立U協加盟各局)の投票で放送音楽賞・放送音楽新人賞が決定され、最終審査で大賞をはじめとする各賞が決定される。
受賞者と受賞曲目を司会を読み上げるのが通例であった。第4回では受賞曲の前奏部で読み上げ、第8回は受賞者の顔写真をスクリーンへ投影するなど趣向を凝らした発表もあった。
※視聴率は関東地区、ビデオリサーチ調べ。
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