内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん、英: Prime Minister)は、日本の内閣の首長たる国務大臣。文民である国会議員が就任し、その地位及び権限は日本国憲法や内閣法などに規定されている。
明治18年(1885年)に太政大臣・右大臣・左大臣の廃止に伴って内閣制度が始まるとその首班の官職として内閣総理大臣が設置された。初代内閣総理大臣は伊藤博文。当初、その権能は内閣職権によって規定され、プロイセンのハルデンベルク官制を模範とした「大宰相主義」が取られ、内閣総理大臣には各省大臣に対する大きな監督権が付与されている特徴があった。明治22年(1889年)以降は内閣官制によって規定されるようになり、「各大臣ノ首班」と位置付けられ、同輩中の首席とされた。内閣制度は、当初は議会や政党に捕らわれない超然内閣として始まったが、大正時代に本格的な政党内閣が出現した。
戦後は日本国憲法と内閣法によって規定されている。内閣総理大臣は、行政権の属する内閣の首長で(憲法第66条1項)、三権の長の一人であり、その他の国務大臣を任免し(憲法第68条)、内閣を代表して国会に議案を提出し、一般の国務および外交関係を報告し、行政各部を指揮監督する(憲法第72条)。
議院内閣制により、国会議員の中から国会の議決(内閣総理大臣指名選挙/首班指名)により指名され(憲法第67条)、これに基づいて天皇は形式的な国事行為として内閣総理大臣を任命する(憲法第6条)。
さらに、内閣総理大臣は、文民でなければならず(憲法第66条2項)、自衛隊の最高指揮監督権を有する(自衛隊法)。内閣府ほか複数の行政組織の長ないし主任の大臣でもあり、これらの機関は内閣総理大臣が直接所管する。
また、現行の日本国憲法においては、日本の元首について明記された条文は存在せず、日本の元首が誰であるかについては憲法学説上の議論があるが、学説の大多数は、条約の締結権や外交使節の任免権のほか一般に外交関係を処理する権限を有する内閣あるいは行政権の首長として内閣を代表する内閣総理大臣を元首と位置付けている。なお、国際慣行上は天皇が元首として遇される。
内閣制度の発足当時から、内閣総理大臣の略称として、一般に「総理大臣」がよく用いられるが、このほかにも、「総理」や「首相」との略称、通称も用いられる。異称として「宰相」が用いられることもある。
公式の英語表記は「Prime Minister」である。この英訳は内閣制度の導入前より「太政大臣」の英訳として非公式に用いられていた。もっとも、「内閣総理大臣」の英訳としては当初からこの語であったわけではなく、かつては「Minister President of State」(「国の大臣主席)」の意味)というドイツ風の訳語も用いられた。
内閣総理大臣も内閣の構成員であるが、日本国憲法では内閣総理大臣を内閣の「首長」と位置付けている。内閣総理大臣は他の国務大臣の上位にあって内閣を統率し、外に対して内閣を代表する。さらに行政各部を指揮監督する権限を有する。
内閣総理大臣は国務大臣の任免権を有し、内閣総理大臣によって組織された内閣が閣議決定を通じて行政権を一手に掌握している。最高裁判所長官の指名権や裁判官の任命権を有し、裁判所の予算は内閣が掌握していることから、内閣総理大臣は裁判所に一定の権限を及ぼしている。また、内閣総理大臣は党首として小選挙区制における公認権を通じて政権与党を掌握している。こうしたことから、内閣総理大臣は閣僚や官僚に対する人事権を通じて行政権を事実上一人で掌握し、人事権と予算編成権によって間接的に裁判所を掌握している。議院内閣制の下ではこうした内閣総理大臣への権力の集中が制度上認められている。他方、米国では大統領に行政権が帰属する独任制をとっているが、徹底した権力分立を採用し、解散のない連邦議会が大統領の政策を監視・抑制するほか、連邦最高裁判所判事の任命に上院の承認が必要とされ、連邦最高裁判所が大統領の政策に対して違憲判断を下すなど、権力相互間の抑制・均衡が働いている。
憲法上、衆議院解散を決定する権限は内閣に属すると解釈されているが、実質的には内閣の首長たる内閣総理大臣が権限を有する。したがって、内閣総理大臣は閣議を開き、「今般、衆議院を解散することに決したので、国務大臣の諸君の賛成を賜りたい」と全閣僚に対して衆議院解散を諮り、内閣の総意を得た上で、衆議院解散を行うための閣議書に、全ての国務大臣の署名を集めなければならない。しかし、憲法68条2項は「内閣総理大臣は、任意に国務大臣を罷免することができる」と定めており、内閣総理大臣は時期や理由を問わず何らの制約なく自由な裁量によって国務大臣を罷免することができる。したがって、衆議院解散を行うための閣議書への署名を国務大臣が拒否する場合、内閣総理大臣は当該大臣を罷免して自身が兼任するか他の大臣に兼任させることで閣議決定を行うことができる。
仮に全閣僚が解散に反対したとしても、内閣総理大臣はすべての大臣を罷免・兼務してでも解散を閣議決定できる(一人内閣)。したがって、内閣総理大臣が解散を行うことを決定した場合、これを阻止する手立ては一切存在しない。もっともこれは衆議院解散のみならず、内閣総理大臣の決定事項すべてについて同じことが言える。内閣総理大臣は自身の方針に反対する大臣を罷免して交代させるか、その任を自身が兼務することが可能である。仮に全閣僚が内閣総理大臣の方針に反対したとしても、内閣総理大臣はすべての大臣を罷免・兼務してでも方針を決定することが可能であり、閣内不一致は最終的に兼務という形で解消することが可能である。解散は憲法7条3号に基づく天皇の国事行為として行われているが、憲法4条1項で天皇は国政に関する権能を有しないと規定されているため、解散権は内閣に属しており、事実上、内閣の首長たる内閣総理大臣が解散権を握っている。したがって、七条解散は、内閣総理大臣が国民に信を問う必要があると判断した際に解散するものとされ、内閣には自由裁量に基づく解散決定権があると解釈されている。ほとんどの解散は憲法7条3号を援用して、内閣の発議のもとに行われている。内閣がいつこれを発議するかは、内閣総理大臣の意思次第である。このため、解散権は「内閣総理大臣の専権事項」「首相の伝家の宝刀」とされている。
内閣総理大臣は以下の機関を所管し、内閣法にいう主任の大臣を務める。
大日本帝国憲法とは違い、現行の日本国憲法には日本の元首に関する規定がない。このことから日本の元首については学説上の様々な議論が存在する。
元首には内治、外交を通じて国を代表し、行政権を掌握している国家機関、あるいは実質的な国家統治の大権を持たなくても国家におけるヘッドの地位にあるもの等、様々な定義がある。誰が元首の資格を持つかは各国法の定める問題であるが、通常、君主国では君主、共和国では大統領がこれに当たる。旧憲法は明文で天皇を元首としていた。現行憲法下では、誰を元首と見るか学説上争いがあり、天皇とする説、内閣総理大臣とする説、存在しないとする説などがあり、結局は元首の定義いかんに帰する問題と考えられる。
長野和夫によれば、国民主権下では、国家を代表する資格をもつ国家機関の長で、国内的にも統治権行使の権限をもつ首相が元首であるべきとの意見が学者の間では強い。芦部信喜によれば、元首の要件で特に重要なのは、外国に対して国家を代表する権能であるとしている。しかし天皇は外交関係では、形式的・儀礼的行為しか憲法で認められていない。したがって、日本の元首は条約締結や外交使節任免および外交関係処理の権限をもち、国家機関として対外代表資格を有する内閣または内閣総理大臣とするのが多数説である。さらに、天皇と内閣総理大臣が元首の役割を分担しているとの見解もある。
一方で、元首は対外的に国家を儀礼的に代表する権限をもつだけで十分として、国の象徴の地位にある者は元首的性格をもつとみる学説があり、この場合には天皇が元首とみなされる。国際慣行上は天皇が元首として遇される。1973年(昭和48年)4月17日の第71回国会衆議院内閣委員会において外務大臣大平正芳は「内閣総理大臣を日本国の元首としてお迎えするというような国はないと私は思います」と答弁している。
日本国憲法およびその他の法令が規定する内閣総理大臣のおもな権限は次の通りである。
このほか、内閣府およびその外局(金融庁、消費者庁、国家公安委員会など)や内閣に置かれる本部などの主任の大臣として、審議会委員等の任免権や各種許認可権を有する。特に、内閣府の外局のひとつである金融庁に関連する許認可権が多い(銀行法や貸金業法、金融商品取引法など)。
1991年までは、機関委任事務に従わない都道府県知事について、司法手続きを経て罷免する権限を有していた(地方自治法旧第146条)。2001年には、閣議における内閣総理大臣の発議権が法制化(内閣法第4条の改正)され、各省に対する指揮監督権が強化された。
内閣総理大臣は、日本の国会議員の中から国会の議決(内閣総理大臣指名選挙。首班指名とも呼ばれる)でこれを指名する(憲法67条1項)。指名の資格要件は国会議員であることと文民であることである。
指名選挙は衆議院と参議院の両院で行われ、両院の指名が食い違った場合は両院協議会が開催されるが、両院協議会で成案が得られない場合は衆議院による指名が国会議決となる(衆議院の優越)。過去に両院協議会が開かれた例はあるが、成案が得られた例はない。また、実例はないが、衆議院の指名後10日を経ても参議院が指名を行わない場合は衆議院による指名が国会の議決となる(同上)。
従って、事実上は衆議院の多数勢力の意向の通りに、首班指名がなされる仕組みとなっている。
指名の結果は、ただちに衆議院議長が職務執行内閣を経由して天皇に奏上する。先例では別途、衆議院議長が皇居で指名の経過を天皇に直接報告する。天皇は、国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命する(憲法6条1項)。
内閣総理大臣の任命は天皇の国事行為の一つであり、すでに内閣総辞職した内閣が、憲法71条に基づく職務執行内閣として、これに「助言と承認」を与える。
内閣総理大臣任命式(親任式)には天皇、衆参両院議長、現任の総理(職務執行内閣)または国務大臣(職務執行内閣)、総理大臣就任予定者(新総理)が参列する。天皇が口頭で新総理を任命した後に、総理が交代する場合は前総理が新総理に官記を手渡す。総理が再任される場合は職務執行内閣の国務大臣が官記を手渡す。
日本国憲法(昭和憲法)において、内閣総理大臣の任期について直接的に規定した条文はない。
憲法では衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があったときは、内閣は総辞職をしなければならないとされているため、このことから内閣総理大臣の1回の任期は次の衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集が行われるときまでとなり、最長でも4年を超えないことになる(憲法70条)。公職選挙法第57条が規定する繰延投票が行われた場合であっても憲法の規定による日数制限には影響しないので、これによる影響は想定できない。基本的に繰延投票は、特定の投票所における繰延に対する規定であるからである。
衆議院議員総選挙で投票が遅れることによって国会の召集の時期が遅れることがあれば、もちろん、この規定は新たに召集された国会において再選されることを禁じるものではなく、制度上は国会議員として首班指名を受け続ける限り内閣総理大臣を続けることができる。
ただ、通常、内閣総理大臣は与党党首の地位を前提として与党議員からの信任を得ているが、その政党の内規で党首職に再選制限が設けられている場合、その年限が事実上の任期の上限となることがある。
なお、明治憲法下では貴族院議員あるいは帝國陸海軍の元帥大将が首班指名を受けた場合、その任期は原則終身、元帥に進級しない陸海軍大将は65歳が定年であったことから、内閣総理大臣が発展途上国に多くみられる終身指導者のような長期政権を敷くことも、理論上は可能であった。しかし、実際には天皇に建前上すべての権力が集中する明治憲法の根幹たる外見的立憲君主制こそが、大日本帝國に長期独裁を敷く宰相を誕生させないという意味で最後の歯止めとなっていた。
なお日本国憲法下の事例においては、内閣総理大臣を退任すると同時に自党の党首職も辞任するか任期満了を迎え退任する事例がほとんどととなっている。
内閣総理大臣の職務代行として内閣総理大臣臨時代理が存在する。これは常に置かれる職ではなく、総理大臣に事故あるとき予め指定された5名の国務大臣が、順位通りに就任する。臨時代理就任順位第1位にあるものが内閣官房長官以外の国務大臣であるとき、俗に副総理と呼ばれる。
内閣総辞職に至るまで無期限に臨時代理が置かれた例としては、第2次大平内閣の伊東正義が、首相死去後に事前指名に基づいて臨時代理に就任し、ただちに内閣総辞職した例、また石橋内閣の岸信介と小渕内閣の青木幹雄が、入院中の首相から指名された直後に臨時代理に就任し、内閣総辞職を行った例がある。首相の外遊中に限って臨時代理が職務を代行した例は多くある。
内閣総理大臣の補佐職として内閣総理大臣補佐官がある。組織上は内閣官房に属するが、職務上は内閣官房長官ではなく内閣総理大臣に直属する。この他内閣特別顧問、内閣官房参与、内閣総理大臣秘書官が存在し、内閣総理大臣の職務執行・政権運営を支える。
明治維新以降、当初は五箇条の御誓文に示された「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」の方針に則り、旧来通りの太政官制度が行われてきた。しかし、奈良時代から続くこの政体は古色蒼然としていて新時代にはそぐわないものであったばかりか、制度面においても、天皇を輔弼するのは太政大臣・左大臣・右大臣であり、これによって「指揮」される参議と各省の卿には輔弼責任がなく、また太政大臣が極度に多忙なかたわら左右大臣の職責は不明瞭という、迂遠かつ非効率なものであった。
1880年(明治13年)ごろから参議伊藤博文はこの「太政官制」の改革を提唱し始めたが、保守派の右大臣岩倉具視が反発した。当時の伊藤博文には重鎮たる岩倉具視に対抗するだけの政治力がなかった。そのため、伊藤博文はいったんこの提案を取り下げて1882年(明治15年)3月から伊東巳代治、西園寺公望らとともに渡欧し、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、イギリスなどで憲法を含む立憲体制の調査にあたったが、このときから「文明諸国と同等の政府」の骨格が具体的に構築されていく。そして、岩倉具視の死後に帰国した伊藤博文はドイツで研究した立憲体制に則した政治体制構想の実施を進めようとした。
これに対して、岩倉具視と同じく保守派の太政大臣三條實美らは、右大臣に伊藤博文をあてるという人事改革案で応酬した。しかし伊藤博文はこれを丁重に断り、代わって黒田清隆を推したが、今度は酒乱の気がある黒田清隆に保守派が尻込み、結局この「改革合戦」は引き分けに終わった。その後も伊藤博文等はこれに怯まず「内閣」制度を提案し、「君主立憲政体なれば、君位君権は立法の上に居らざる可からずと云の意なり。故に、憲法を立て立法行政の両権を並立せしめ恰も人体にして意想と行為あるが如くならしめざる可からずと云」という伊藤博文の語録にあるように、憲法とセットにして近代的内閣制度を突きつけられては、保守派も反対の名目がなく、伊藤博文の意向が通る形となった。
1885年(明治18年)12月22日に、「太政官達第六十九号」が発せられ、「太政官制」「太政大臣」に代わって「内閣」と「内閣総理大臣」が設置され、ここに内閣制度が始まった。「内閣」の組織には宮内大臣は含まれないことが明記され、「宮中(宮廷)」と「府中(政府)」の別が明定され、行政責任を各省大臣が個別に負う体制の基礎が生まれた。このとき同時に制定された内閣職権においては、「内閣総理大臣」には「各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承テ大政ノ方向ヲ指示シ行政各部ヲ統督ス」(二條)と、最初は強力な権限を与えられていた。
1889年(明治22年)に大日本帝国憲法が発布されるが、同法においては「内閣」や「内閣総理大臣」について直接の規定は明記されず、同第55条において「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」と明記されたのみであった。また、同時に「内閣職権」を改正する形で制定された「内閣官制」において「内閣総理大臣ハ各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス」(2条)と、その権限は弱められた。
権限としては、「内閣総理大臣」は「同輩中の首席大臣」として天皇を輔弼する存在とされ、「内閣」は各大臣の協議と意思統一のための組織体と位置づけられた。内閣総理大臣は各部総督権を有して大政の方向を指示するために機務奏請権(天皇に裁可を求める奏請権と天皇の裁可を宣下する権限)と国務大臣の奏薦権(天皇に任命を奏請する権限)を有したものの、いったん閣内に意見の不一致が起こると、内閣総理大臣は各大臣の罷免権がなく大臣を罷免することはできず、説得や辞任を促すことくらいで、これが失敗すれば内閣総辞職するしかなかったのである。事例として東條内閣の総辞職原因は、国務大臣の岸信介が辞職を拒否したことによるものであり、また第2次近衛内閣は、外務大臣の松岡洋右を更迭するために総辞職という手段を使わざるを得なかった。また、明治の一時期と昭和初期から終戦まで規定されていた軍部大臣現役武官制によって、組閣は軍による制約を受けた。特に陸軍は内閣が自らの意向に沿わない場合には、陸軍大臣を辞任させたうえで後任を推薦せず、これによって第2次西園寺内閣・米内内閣が崩壊し、宇垣一成が組閣を阻止された。
地位としては、皇室儀制令においての宮中席次は大勲位についでの地位にあり、枢密院議長よりも格上とされ、儀礼上では府中の最高位と位置づけられていた。
任免については、内閣総理大臣は、各国務大臣同様に天皇により任命され(大命降下)、その選出方法については法令によって規定されなかった。明治初期から昭和初期までは元老による推薦に基づいて任命されていたが、そのうち大正末期から昭和初期にかけては、大正デモクラシーによる政党政治が基本となり、衆議院での第一党の党首が推薦され、任命されていた(憲政の常道)。その後、「最後の元老」西園寺公望の老衰にともない、昭和初期から終戦までは「重臣会議」の奏薦によって任命されている。
1946年(昭和21年)11月3日に日本国憲法が公布され、第66条に「内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する」と初めて憲法に明記された。これにともない、翌1947年(昭和22年)1月16日に施行された内閣法では、「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基いて、行政各部を指揮監督する」(6条)など、その権限が強化された。
日本国憲法下の内閣総理大臣は、閣内に意見の不一致が起こった場合は、罷免して自らの意見を通すことができる。また何らかの理由で大臣が突然辞職しても、内閣総理大臣はその後任を任意に任命することができる。この顕著な例が衆議院解散権である。憲法上、衆議院の解散は内閣の助言と承認により天皇が行うことになっているが(7条3号)、これはつまり「解散権は内閣に属す」ということで「閣議決定なしには解散はできない」ということであるが、一般に「解散権は内閣総理大臣の専権事項」と解釈されているのは、解散に反対して閣議書への署名を拒否する大臣がいたとしても、内閣総理大臣はその大臣を罷免したうえで、自らが兼務して閣議書へ署名することができるからである。仮に全閣僚が反対したとしても、内閣総理大臣はすべての大臣を罷免・兼務してでも解散を閣議決定できる(一人内閣)。したがって、内閣総理大臣が解散を行うと決めた場合、これを阻止する手立ては法令上はないのである。このように、大臣に対する任意の罷免権の効果はきわめて大きい。
内閣制度移行に際し、誰もの関心は誰が初代総理大臣になるかであった。衆目の一致するところは、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三条実美と、大久保利通の死後、事実上の宰相として明治政府を切り盛りし内閣制度を作り上げた伊藤博文だった。しかし三条は藤原北家閑院流の嫡流で、清華家のひとつである三条家の生まれという高貴な身分、公爵である。一方、伊藤といえば貧農の出であり、武士になったのも維新の直前という低い身分の出身で、お手盛りで伯爵になってはいるもののその差は歴然としていた。太政大臣に替わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では誰もが口をつぐむ中で、伊藤の盟友だった井上馨が「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三条を支持する保守派の参議も返す言葉がなく、あっさりこれで決まってしまった。初代総理を決めた最大の要因は伊藤の「英語力」だったのである。
伊藤の内閣総理大臣就任にともない、三条は内大臣として宮中に回り、天皇の側近として明治天皇を「常侍輔弼」することになった。しかしそもそも内大臣は三条処遇のために創られた名誉職で、実際は彼を二階へ上げてはしごを外したようなものだった。これに対して、かつて三条に仕えていたことがある尾崎三良(元老院議官)は三条に対して強く抗議すべきであると進言したが、三条は「国家将来のためのことであり、私自身の問題ではない」として、逆に尾崎に対しそうした軽挙を戒めている。しかし明治天皇もさすがにこの処遇を気の毒に思ったのか、1889年(明治22年)10月25日に第2代内閣総理大臣の黒田清隆が条約改正をめぐる政局混乱の責任を取って内閣総辞職した際、天皇は黒田の辞表をのみ受理してほかはすべて却下し、三条に内閣総理大臣を兼任させた。これは「臨時兼任」ではなく、単に「兼任」であり、しかも天皇が次の山縣有朋に組閣の大命を下したのはそれから2か月も経ってからのことだったため、この期間はひとつの別個の内閣が存在したものとみなしてこれを「三条暫定内閣」と呼んでいる。それでも三条実美は歴代の内閣総理大臣としては数えないことになっている(なお、明治天皇本人にも「西園寺公望の首相就任時に『公家から初めて首相が出た』と喜んでいた」という逸話がある)。
現職の内閣総理大臣が選挙で落選した例はない。ただし、当選できなかった例として、大平正芳は1980年の衆院選で立候補したものの開票前に死去したものがある。中選挙区制時代、歴代の現職内閣総理大臣は1位当選することがほとんどであったが、唯一中曽根康弘のみ1983年と1986年の2回の衆院選で2位当選になっている(1位は福田赳夫)。
内閣総理大臣経験者が国政選挙で落選した例として、片山哲(1949年・1963年)と石橋湛山(1963年)と海部俊樹(2009年)の例がある。また、菅直人(2012年・2014年)は小選挙区で落選したが、比例復活当選をしている。細川護熙は、政界引退後、2014年の東京都知事選挙に立候補したが落選した。
内閣総理大臣は国会議員から選出されなければならない。法理論上、衆議院議員の被選挙権を得る25歳から就任することができる。法的には、衆参いずれの議院に属するかを問わず、国会議員であれば誰でも指名される可能性はあるが、政治経験などが重視されることが多く、1年生議員が就任する確率はきわめて稀である(細川護煕が1993年に衆議院当選1回で首相に就任しているが、就任以前に参議院議員・熊本県知事の経験があった。また吉田茂は1948年に衆議院当選1回で首相に就任しているが、この就任以前に貴族院議員や外務大臣・首相の経験があった)。
日本の歴代首相の中で最年少記録を保持しているのは、1885年の初代伊藤博文(当時44歳)で現在も破られていない。歴代最年長就任記録は1945年の鈴木貫太郎(当時77歳)で、最年長在任記録は大隈重信(当時78歳)である。戦後最年少としては、2006年の安倍晋三(当時52歳)である。戦後最年長就任記録は幣原喜重郎の73歳だが、新憲法の範囲では石橋湛山の72歳3か月である。戦後最年長在任記録は吉田茂の76歳3か月である。
学歴の規定は特には無い。
初期の内閣総理大臣たちは若いころはそれぞれ、江戸時代(幕末期)の教育法で教育を受け育ったわけだが、近代教育での学歴を持つ最初の内閣総理大臣はフランスのソルボンヌ大学に留学した西園寺公望である。
歴代の総理らの一覧表を単純に分類・集計すると、一応は、旧制だった時代の東京帝国大学「出身者」が多い、ということにはなる。新制となってからの東京大学の出身者は、工学部計数工学科を卒業した鳩山由紀夫のみである。また新制の国公立大学出身の内閣総理大臣としても鳩山が初めてである(なお、学歴で一番重要とされるのは最終学歴であり、鳩山由紀夫の最終学歴はむしろ、スタンフォード大学大学院工学部博士課程修了である)。私立大学で2名以上の首相を輩出しているのは早稲田大学、慶應義塾大学、明治大学など(特に早稲田大学には早稲田大学雄弁会という「政治家の登竜門のひとつ」とも見なされることのある弁論サークルがあり、1956年~2000年で5人が内閣総理大臣に就任した実績がある)。
田中角栄は(微妙な位置づけだった状態の)専門学校で学んだ経歴の持ち主であり「学制上での最終学歴」は高等小学校卒業であり、それをあえて自身のアピールポイントにしていたこともある。なお、宇野宗佑は旧制神戸商業大学(現・神戸大学)に進学したが、2か月後に学徒出陣となり、戦後のシベリア抑留を経て復学せずそのまま中退したため、平成で唯一学士の学位を持たない内閣総理大臣となった。
内閣総理大臣を退任した後も、警視庁警備部の判断で元首相本人の警護を行うことが慣例となっているが、基本的に警護を拒否することのできない現職首相とは異なり、元首相本人の意向により警護を辞退することも可能である。
大日本帝国憲法下においては、退任した元首相は元老となったり重臣として重臣会議に参加した場合、内閣総理大臣の選任(天皇への奏薦)に携わることができた。
日本国憲法下において、内閣総理大臣を一度退任した人物がその後国務大臣や政党要職に就任した事例は少ないが、再度内閣総理大臣に就任した吉田茂と安倍晋三のほかにも、宮澤喜一(小渕内閣~森内閣での大蔵大臣→財務大臣)・橋本龍太郎(森内閣での沖縄及び北方対策担当大臣など)・麻生太郎(第2次安倍内閣~菅義偉内閣での財務大臣など)の3名は首相退任後に他の総理大臣の下で閣僚として入閣している。また、海部俊樹(新進党党首)・羽田孜(民主党幹事長)・野田佳彦(民進党幹事長)の3名は内閣総理大臣退任後に野党第一党の要職を歴任している。
このほか、表向きに要職へは就かないものの、田中角栄(闇将軍とも言われた)や竹下登、安倍晋三のように大派閥を擁し首相退任後も政界に大きな影響力を残す人物もいる。
内閣総理大臣経験者に対する栄典については、在任期間に応じ、位階は従一位、正二位または従二位(現在は没後叙位が原則)、勲等勲章は大勲位菊花章頸飾、大勲位菊花大綬章または桐花大綬章(旧・勲一等旭日桐花大綬章)のいずれかに叙される(在任1年9か月の小渕恵三は大勲位菊花大綬章に叙されている)。ただし、刑事事件などの不祥事により見送られることや本人の意志による辞退の例もある(例:田中角栄はロッキード事件で有罪となり刑事被告人のまま死去したため、栄典は受けられなかった。宮澤喜一は自身の遺志により遺族が栄典を辞退した)。
内閣総理大臣に就任が有力視された大物政治家でありながら、早世などの理由で就任に至らなかった人物を「幻の総理」と呼ぶことがある。福田和也『総理の値打ち』(文春文庫)や御厨貴編『歴代首相物語』(新書館)など歴代首相総覧の類では定番の項目となっているほか、浅川博忠『自民党・ナンバー2の研究』(講談社文庫)や小林吉弥『総理になれなかった男たち』(経済界)など「幻の総理」を特集した書籍も出版されている。さまざまな人物が名前を挙げられるが、福田・御厨・浅川・小林がすべて挙げている人物として緒方竹虎と河野一郎、戦前も扱った福田・御厨がともに挙げている人物に井上馨・後藤新平・宇垣一成がいる。このほか、「辞退さえしなければ首相になれた」人物、すなわち戦前の徳川家達や戦後の伊東正義のように次期首相として推挙されながら辞退した人物も存在する。
山本権兵衛は第2次山本内閣の親任式当日に暗殺の噂が流れた。折しも関東大震災の直後で問い合わせもままならず、水戸の新聞の中に号外まで発行したものがあったという。また、岡田啓介は二・二六事件の襲撃対象であったが、首相官邸に乱入した武装青年将校は容貌がよく似ていた義弟で秘書の松尾伝蔵を銃撃し難を逃れた。松尾を岡田と誤認した青年将校が総理死亡を発表したため、存命にもかかわらず新聞に死亡記事が出るなど情報が錯綜した。
(内閣総理大臣の氏名の後の年は就任した年)
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