本稿では東京都内の貝塚のなかで、存在が確実な縄文・弥生時代の貝塚の一覧を取り上げる。縄文時代、海面は現代より高く(縄文海進)東京の貝塚の分布も当時の海岸線を表している。
東京にある貝塚の数は資料によって異なり、1974年の『東京都遺跡地図』初版では東京都内の貝塚として116か所が挙げられている。モースが発見し日本で最初に本格的な調査が行われた大森貝塚は東京都にあり、東京では貝塚の研究は早くから行われていた。しかし、明治時代の大まかな調査では貝塚とされたものの現代では名前だけが残っていて実態がよく分からない貝塚や、歴史時代のもの、後年に自然貝層と判明したものなども含まれる。したがって、各種資料でもその年代によって東京の貝塚の数は増減している。東京都はほぼ全面に開発の手が入り現代では湮滅してしまいもはや調査不能の貝塚や人知れず湮滅した貝塚も多いものと考えられている。本項で取り上げた貝塚には寺社地や公共用地内所在のものが多いが、逆に寺社地や公共用地以外にあった貝塚には人知れず破壊されたものが多いであろうと考えられる。また貝塚の定義も人によって異なるため弥生時代以降のものを資料によっては貝塚一覧に入れたり入れなかったりしている。したがってどこからも異論が出ない貝塚の一覧を作成することは困難であるが、本項では東京の貝塚に関する有力な資料、東京都教育委員会編『東京都遺跡地図』2015年インターネット版、東京都教育委員会編『都心部の遺跡』1985年、品川区立歴史館編『東京の遺跡を考える』2008年の3点の資料において共通して記載されている貝塚を一覧化する。
1988年の『東京都遺跡地図』第二版では東京の各区の貝塚の数は以下の通り
以上105か所である。このなかで先史時代のものであることが明確な貝塚を一覧にした。江戸川区の貝塚6か所すべてが歴史時代や時代不明であり採録しなかったのをはじめ、縄文・弥生時代のものであることが明らかな貝塚以外は取り上げていない。
東京の貝塚の数は縄文後期前半に増えているが、内陸部の縄文遺跡の数は縄文中期よりもむしろ減っている。この時期に海面が後退して陸化した部分に縄文人が進出した結果であろうと考えられている。海から遠いように見える目黒区東山貝塚は目黒川沿い、明治神宮北池貝塚は渋谷川支流沿い、青山墓地内貝塚も渋谷川支流沿いにあり、池袋本町にある貝塚も矢端川(小石川)に面し、海面が高かった縄文時代には海水が近くまであがってきたものと考えられている。
東京都内の貝塚のなかで、存在が確実な縄文・弥生時代の貝塚の一覧を示す。
時代の( )内は時代細分。例えば縄文後期(加曾利B)は縄文時代後期のなかで加曾利B式土器期の意味。関山式期はおよそ6700-6450年前(1950年起点、以下同じく)、黒浜式期は6450-6050年前、諸磯式期は6050-5600年前(そのなかで諸磯aは6050-5950年前)、勝坂式期は5380-4900年前、加曾利E式期は4900-4420年前、堀之内式期は4240-3820年前、加曾利B式期は3820-3470年前、いずれも1950年起点
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