松田 清(まつだ きよし、1930年12月11日 - 2007年2月18日)は、東京府東京市(現・東京都)渋谷区初台出身のプロ野球選手(投手、外野手)・コーチ、解説者。
中野高校在学中の1949年夏、読売ジャイアンツにテスト生として入団。
入団後は肩の故障のため一塁手に転向していたが、2年目の1950年夏、二軍の東北・北海道遠征のある試合で岩下守道が連投で疲労困憊しストライクが入らず、見かねた松田は宇野光雄二軍監督にリリーフを申し出て好投。松田の活躍によりこの遠征で巨人は7戦全勝の好成績を挙げ、松田も秋口に一軍に昇格。3試合で13回2/3を投げ10失点したが、自責点は僅か2点に抑える。10月24日の大洋戦(中津市営)で初先発登板を果たし、11月4日の国鉄戦(後楽園)で金田正一と投げ合い初勝利を挙げている。
大きく割れるカーブと藤本英雄から伝授されたスライダーを武器に、3年目の1951年から実力が開花。5月23日の広島戦(後楽園)で5勝目を挙げて以降は連勝街道を邁進し、10月4日の対名古屋戦(鳴海)で1シーズン連勝のセ・リーグ記録となる19連勝を達成。生きるため、家族を養うために夢中で投げたのが連勝を生んだ。最優秀防御率(防御率2.01)、最高勝率(23勝3敗、勝率.885)、新人王のタイトルを獲得。
1952年は3月22日の国鉄戦(後楽園)に勝利し、当時のプロ野球記録である20連勝まで記録を伸ばす。20連勝の記録は1957年に西鉄の稲尾和久がタイ記録で並んだのち、2013年に楽天の田中将大がほぼ半世紀ぶりに記録を更新(最終的にレギュラーシーズン28連勝)するが、いまだにセ・リーグ記録となっている。しかし、松田は年間を通じて前年ほどの活躍はできず、13勝7敗・防御率3.17に留まる。
1953年以降は登板試合数が激減して、1955年までの3年間勝ち星から見放された。特に故障したわけではなかったが、後年本人が語ったところでは、直球の球威を増そうと練習したところ、球が速くなった代わりに、カーブが悪くなってしまったという。また、真面目すぎる性格のため、一つ負けてしまったことでジレンマに陥ってしまったのでは、との声もある。
1956年に二軍時代から松田を可愛がっていた宇野が国鉄の監督に就任すると、松田も国鉄に移籍。同年2勝を挙げた後に外野手へ転向し、1957年から1960年頃まで毎年100試合以上出場するなど、外野の準レギュラー格として活躍。古巣・巨人戦でもよく打ったが、1961年に現役を引退。
引退後は関西テレビ解説者(1962年 - 1972年)を経て、南海ホークスで二軍投手コーチ(1973年 - 1975年)・一軍投手コーチ(1976年 - 1977年)・スコアラー(1978年)を務めた。
評論家時代には阪急の戸田善紀に「腐ったらいかんで」という言葉をかけ、その言葉を胸にした戸田は奮起して主戦投手になるまでに成長。
南海コーチ時代は藤田学に牽制球や守りを含めたマウンド捌き、投手としての精神面の教育を万全に行った。
野村克也選手兼任監督の解任と共にコーチを下りたが、スコアラー転身後も「ハングリー野球」を示すために若手選手と走った。
南海退団後はサラリーマン生活を経て、1985年から大阪府八尾市にて「松田野球塾」を開設し、後進の指導に当たる。同塾からは杉本正志(広島→ロッテ→オリックス)、広政秀之(近鉄)、村田正幸・大原秉秀(ヤクルト)など何人かのプロ野球選手を輩出している。
2007年2月18日に大阪府羽曳野市の自宅にて虚血性心疾患により死去。享年78(満76歳没)。
球威自体で打者を押さえつけるタイプではなかったが球質は重く、大小2種類のカーブと、1951年の春季キャンプで習得した鋭く切れるドロップを武器とした。特にカーブのコントロールは抜群で、分かっていても打てなかったという。また、投球のリズムが良く、野手から非常に守りやすいとの声があった。
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