小松島市(こまつしまし)は、徳島県のおよそ東部中央、紀伊水道沿岸に位置する市。
徳島県東側に位置し、古くは屋島に逃れた平氏を討つために源義経が小松島より上陸したという義経伝説や、阿波狸合戦、金長狸民話などで知られる市である。1980年代後半頃より「太陽と水とみどり豊かな港湾都市」の建設を目指し様々な開発が行われて来たが、旅客航路の撤退などにともない、2000年代からは港を中心とした「港湾都市」から徳島赤十字病院などを中心とした「医療福祉都市」へと変わろうとしている。キャッチフレーズは、「優 (YOU)・愛 (I) タウン・小松島 -風と光のハーモニーが聞こえる未来(あした)へ-」。
市の中心地は徳島小松島港付近であり、市役所や図書館などが位置する。かつては関西から四国への玄関口として港を中心に二条通や千歳橋筋などの商店街も栄えていたが、国鉄小松島線の廃止や本四架橋の影響から航路撤退が相次いだこと、国道55号沿いに郊外型店舗(主に徳島県下で展開するキョーエイグループなど)が進出したことなどで徐々に衰退した。2006年頃に本格的な中心市街地活性化のため、東洋紡績小松島工場跡地に徳島赤十字病院を核とした複合ビルが完成している。
道路の拡張工事なども各所で行われており、かつての趣を一新しつつある。湾に面したところに小松島競輪場がある。
小松島市は、平安時代には、篠原郷(前原、江田付近)、新居郷(新居見付近)、余戸郷(田野芝生付近)があった。このうち篠原郷は一時、京都の仁和寺の荘園であり、この仁和寺は京都の小松郷というところにあったために、この名にちなんで「小松島」の地名が生まれたものと考えられている。
徳島県東部、県庁所在地である徳島市の南側に位置し、日峰山の麓に街が広がり、勝浦川と那賀川の二つの流域に挟まれ、北側の北の根井鼻と南側の和田島との間に小松島港があり、その港を通じて紀伊水道に面している三角州である。挟まれた流域内に国道55号が市の中央を南北に縦断している。中心部は古くから港湾都市として栄え、勝浦川の三角州の平野として紀伊水道の小松島港沿い、三方を田野山・新居見山・田浦前山などと呼ばれる小さな丘陵の東側に面している。
横須町の弁天山の北側がアコウの自生北限地である。
全体的に標高が低く、市域の7割が平野である。市の北側は神田瀬川と芝生川との間に挟まれた小松島平野、西側は立江川流域の周辺に広がる立江平野、東側は太田川流域に広がる坂野平野で市域全体の平野を占める。3割の山地は日峰山・四国山地を占める。東側は小松島町元根井と和田島の間に挟まれた徳島小松島港が位置する。
平成の大合併前は徳島県内で一番人口が少ない市であったが、現在は県内の市部では第5位である。1985年(昭和60年頃)までは人口が増加していたが、現在は減少傾向である。2012年(平成24年)には市の推計人口が4万人を下回った。
45.37 km2で、徳島県内の市で最も狭い。市制施行前の面積は21.89 km2である。
国土地理院地理情報によると小松島市の東西南北それぞれの端は以下の位置で、東西の長さは約9.1 km, 南北の長さは約8.5 kmである。
かつては中田貝塚や川村塚が縄文時代のものとされていたが、縄文土器は確認されていない。
市内の遺跡としては、弥生時代後期のものと考えられている小松島市営グランド遺跡がある。
1つの本庁(小松島市役所)が設置されている。
当市の財政は危機的状況にあり財政再建団体に陥る可能性もあるとして2009年3月、市長による「財政非常事態宣言」がなされ、徹底した行財政改革に取り組む姿勢を示している。
小松島の頭文字である「小」を港湾都市をイメージする錨で囲み、制定前は室町時代(足利時代)から使用され、小松島港に外部の船のうち、海賊船が来ないように区別する為に唐梅の旗を立てたことから始まり、それが正式に1934年5月に小松島町章として制定され、市制施行後も継承された
農業と漁業の生産が行われている。年々生産量は減少傾向であったが、現在は菌床シイタケの大規模な栽培で生産量は横ばいである。
立江町・櫛渕町でシイタケとヤマモモを栽培している。平野部では主に米・イチゴ・キュウリ、山麓部と傾斜地ではミカン・タケノコの栽培が盛んである。果樹園は耕地面積の約1割を占める。市内一体が管轄のJA東とくしまは、有機農業に取り組んでいる。
沿岸漁業が漁業生産の中心である。紀伊水道に面する和田島町・小松島町元根井地区では水産加工業が発展しており、その中で底引き網漁とバッチ網漁でちりめん・ハモ・タチウオ・エビ・いりこ漁を行っており、阪神地区に出荷している。近年はちりめんの漁獲量は年々減少している。竹輪・蒲鉾の加工も行われている。
江戸時代には藍商人、明治時代からは四国地方の東側の玄関口として、市内中心部には数多くの商店、劇場および宿泊施設などが軒を連ねていた。その繁栄ぶりは人口規模を遙かに上回るものであった。しかし、その繁栄も1980年代を境として国鉄小松島線の廃止や航路の撤退などで徐々に勢いを失い、中心部の商店街は衰退していった。さらにモータリゼーションによる道路整備が行われ、1970年代に徳島市と高知県高知市とを結ぶ国道55号徳島南バイパス沿いに中継地点として相次いで建設されたロードサイド店舗に商店街は消費者を奪われ、小松島湾周辺の商業地帯は壊滅的な打撃を受けた。2000年代には東洋紡績小松島工場の閉鎖により、その跡地に徳島赤十字病院と商業施設が立地し、市内の流通拠点地点は変化している。
地元資本の勢力が強く、複数の地場スーパーがチェーン展開を行っている。かつてはサティやデイリーマートもあったが撤退した。店舗数は増加しており、市内一円に立地している。
競争が激化しているため、徳島県産の生鮮食料品の販売に力を入れたり24時間営業を行うなど、各店がさまざまなサービスを展開している。
勝浦川の流域沿いに明治時代からゼラチン製造・製氷・製糸・染料・染色業・食用油・化学繊維・竹輪・蒲鉾関連の工場が誘致によって立地した。1964年に新産業都市に指定されてからは工業都市として発展していたが、2000年代の東洋紡績小松島工場と日本製紙小松島工場の閉鎖によって衰退した。
シイタケは徳島県下の自治体で一番の生産量である。
1957年2月1日に従前大字○○と称していたものを、○○町に改めた。
当市は住居表示実施済の町丁があり、徳島県下で住居表示を実施している自治体は、他に徳島市しかない。
市の北側、小松島平野に位置し、旧小松島町の範囲である。小松島港があり、金磯町には工業団地が立地している。源義経が四国で最初に上陸した地である。
市の南西部、立江平野に位置し、旧立江町の範囲である。徳島県道28号阿南小松島線が南北に縦断し、立江寺が立地している。ヤマモモとしいたけが特産品である。
市の東側、坂野平野に位置し、旧坂野町の範囲である。国道55号徳島南バイパスが東西に縦断し、海上自衛隊小松島航空基地や阿波製紙が立地している。ちりめんが特産物である。2013年、和田島町で和田島太陽光発電所が運転を開始した。。
なお、常盤町については廃止されている。
2010年5月に小松島市教育委員会が少子化の影響で中学校と小学校・幼稚園の統廃合を計画している。
小松島中学校区・坂野中学校区・立江中学校区に該当する小学校を対象にした再編計画が進められており、最終的には全5校にする計画である。
市内には牟岐線(阿波室戸シーサイドライン)が通っている。中心となる駅は南小松島駅であり、すべての特急列車と日中毎時2本の普通列車が停車する。市内にある駅は次の通り。
かつては日本国有鉄道(国鉄)小松島線(牟岐線中田駅より分岐)があり市中心部に敷設されて小松島駅があったが、1985年に廃線になっている。
かつては小松島市営バスが市内を運行していたが、2015年4月1日に廃止され、廃止時の残存路線は徳島バスに譲渡された。
高速道路は市内を通過していないが、徳島南部自動車道の延伸計画(阿南 - 徳島JCT間)があり、市内には小松島インターチェンジが前原町付近に、立江櫛渕インターチェンジが立江町付近にそれぞれ設置される予定である。
「港湾都市 小松島」として四国地方の東側の玄関口として江戸時代は藍や生活必需品の運搬拠点、大正時代からは京阪神を結ぶ航路として小松島港から和歌山港(南海フェリー、1999年に徳島港へ移転)や大阪南港(小松島フェリー、1993年廃止)を結ぶ航路があったが現在は徳島市に移行している。また、かつては外国貿易が盛んであった。
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