アゼルバイジャンのユーロビジョン・ソング・コンテストでは、アゼルバイジャンにおけるユーロビジョン・ソング・コンテストについて述べる。アゼルバイジャンではİctimai Televiziyaが欧州放送連合に加盟した後、2008年大会で初めてユーロビジョン・ソング・コンテストに参加した。İTVは同大会のアゼルバイジャンでの放送を担当する。
アゼルバイジャンでは別の放送局AzTVが2007年大会への参加を希望したが、欧州放送連合はAzTVが同連合のメンバーではないことを理由にこれを認めなかった。AzTVはアゼルバイジャン政府と近すぎることを理由に2007年6月18日に欧州放送連合への加盟を拒絶された。7月5日、İTVが欧州放送連合の正式会員となり、10月15日には欧州放送連合での活動が認められた。
アゼルバイジャンは南コーカサスの国としては最も遅れて大会への初参加を果たした(アルメニアは2006年大会から、グルジアは2007年大会から参加している)が、決勝への進出率は三国の中で最も高い。アゼルバイジャンは2008年大会では準決勝を突破して決勝に進み、132ポイントを集めて8位となった。次ぐ2009年大会では、アイセル・テイムルザデとアーラシュが楽曲「Always」で参加した。彼らは準決勝を2位で通過し、決勝ではアイスランドに僅差で敗れて3位の好成績を残した。
2011年5月14日、2011年大会のアゼルバイジャン代表、エルダル・ガスモフとニガル・ジャマルの楽曲「Running Scared」が優勝し、2012年大会の主催国となった。
2006年、アゼルバイジャンのマスメディアは、ユーロビジョン・ソング・コンテストの公式サイトでアルメニア代表のアンドレ(André)の出身地がナゴルノ・カラバフとなっていることを非難した。Andréが生まれた1979年当時は、名実ともにアゼルバイジャン領であった。結果として、ウェブサイトからはアンドレの出身地の情報は削除された。
2009年5月12日、2009年大会の準決勝で、アルメニア代表であるインガ&アヌシュの演技の導入部に流されたビデオ・クリップの中で、アルメニア国内の物とともに、ナゴルノ・カラバフにある「我らの山」記念碑が映っていた。アゼルバイジャンのマスメディアの代表者たちは、大会主催者に対してこれを修正するよう求めた。その結果、5月16日の決勝では「我らの山」記念碑が映像から取り除かれた。アルメニア公共放送はこれに対する応報として、決勝大会でのアルメニアからの得点をモスクワに伝える際、背景に大きく「我らの山」記念碑を映し出した。また、アルメニアからの得点を発表するシルショが手に持っていたボードにも記念碑の写真がついており、これを何度か見せていた。
2009年大会が終わったあと、ベラルーシのメディアが、ユーロビジョン大会での不正行為の疑いに関する報道をした。その中では、何者かがベラルーシの学生らにカネを払い、アゼルバイジャンへの投票を求めたこと、さらに、10台のバスを使って彼らをベラルーシとリトアニアの国境へと移送したこと、そのコストは合計で55百万ルーブルに上るであろうことが報じられている。彼らは、ベラルーシのSIMカードを使ってベラルーシからアゼルバイジャンに投票し、その後リトアニアのSIMカードを受け取ってリトアニアからアゼルバイジャンに投票した。アゼルバイジャンの楽曲「Always」は、ベラルーシから10点、リトアニアから5点の高得点を受けている。しかし、ベラルーシのアゼルバイジャン人ディアスポラの代表者、ナティク・バギロフ(Natik Baghirov)は、このような動きについて何も知らず、またベラルーシのユーロビジョン審査員であるSyarhei Malinouskiは、ベラルーシからの大挙しての国境越えの事実性について疑問を呈し、「愚かな噂に過ぎない」とした。
ナゴルノ・カラバフ問題によって、隣国アルメニアとの関係が極めて悪いから、両国は互いに得点を入れたことは稀である(アルメニアがアゼルバイジャン代表にポイントを与えたことがあるが、アゼルバイジャンがアルメニア代表にポイントを与えたことは一度もない)。
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