菊田 一夫(きくた かずお、1908年3月1日 - 1973年4月4日)は、日本の劇作家・作詞家。本名:菊田 数男。元妻は女優の高杉妙子。娘の菊田伊寧子は作曲家。
神奈川県横浜市生まれ。生まれてすぐ養子に出され、生後4ヵ月で両親(西郷姓)に連れられて台湾に渡ったが、まもなく捨てられ、転々と他人の手で養育された末、5歳のとき菊田家の養子になった。台湾城北小学校に入学したが、学業半ばで大阪の薬種問屋に売られ、年季奉公をつとめた。その後神戸の元町の骨董店で丁稚奉公を務めながら、夜間の商科実業学校(現 神戸市立神港高等学校)で学ぶ。この時期に文学に興味を抱き、1923年結成の「元五青年団」の機関誌『桜草』の編集人を務めた。
1926年(大正15年)に上京して印刷工となる傍ら、萩原朔太郎やサトウハチロー、林芙美子、小野十三郎らと出会い、サトウの世話で浅草国際劇場の文芸部に入る。そののち、1933年(昭和8年)に古川ロッパらにより、浅草常盤座で旗揚げされた劇団「笑の王国」に座付き作家として迎え入れられ、劇作の道に入った。1935年(昭和10年)ロッパが退団して東宝に所属すると、翌1936年に菊田も東宝に移籍して東宝文芸部の嘱託となる。この間、「ロッパ若し戦はば」「ロッパと兵隊」「道修町」「花咲く港」などの名作を書き人気を集めるが、舞台への厳しい姿勢と激しやすい性格からロッパと衝突し、1943年(昭和18年)にロッパ一座を去る。戦時中は岩手県江刺市(現・奥州市)に一時疎開した。
戦後間もなく、作曲家の古関裕而とコンビを組み、数々のラジオドラマ、テレビドラマ、映画、演劇、ミュージカルを手がけ、多くのヒット作品を世に送り出した。特にミュージカルにおいては、戦後の日本ミュージカルの草分けといわれている。2人の代表作は、ラジオドラマ・映画では「鐘の鳴る丘」、「君の名は」シリーズ、「あの橋の畔で」シリーズなど。舞台では「敦煌」、「暖簾」、「がしんたれ」、「放浪記」、「風と共に去りぬ」など。楽曲では「イヨマンテの夜」、「雨のオランダ坂」、「フランチェスカの鐘」など、多岐にわたる。特にラジオドラマ『君の名は』は大ブームを巻き起こし、映画化もされた。
1955年(昭和30年)東宝社長小林一三に迎えられ、東宝取締役(演劇担当役員)に就任する。1957年には芸術座を開館。東宝演劇部の総帥としての仕事のかたわら、映画や帝劇・宝塚歌劇などの舞台の原作・脚本・演出をはじめ、小説の執筆にも精力的な活躍を続け、数々の名作を世に送り出した。ミュージカル「マイ・フェア・レディ」の上演権を獲得し、日本で初めてブロードウェイ・ミュージカルを舞台に乗せた。以後、日本のミュージカルの世界は大きく羽ばたくことになる。また、「がめつい奴」「がしんたれ」「暖簾」「花のれん」「丼池」「道頓堀」など、大阪を舞台にした作品により「大阪ものは菊田一夫」と賞賛された。
1960年『がめつい奴』の脚本・演出により第8回菊池寛賞受賞、第11回芸術選奨文部大臣賞(文学・評論部門)受賞。同年、東宝のプロデューサー池野満の企画により、劇作家の生活向上を目的として、川口松太郎、中野実、北條秀司、菊田一夫で「劇作家四人の会」を結成。菊田は民社党の支持者でもあり、1962年(昭和37年)4月23日に開かれた「学者・文化人による民社党をはげます会」に尾崎士郎・徳川夢声・平林たい子らと共に出席、「民社党におくる」・「忘れるな大衆の願いを」と題した二篇の詩を送った。1966年『風と共に去りぬ』を世界で初めて舞台化。
1973年(昭和48年)4月、数年患っていた糖尿病に脳卒中を併発し、慶應義塾大学病院で死去した。享年66。墓所は世田谷区浄真寺。戒名は久遠院法晶日夫居士。ライバルでもあった劇作家の北条秀司は、「菊田ほど仕事の好きな男を私は知らない。その仕事好きが彼を大成させ、そして彼を殺した」と記している。
1975年(昭和50年)、菊田の功績を記念し、演劇界の発展を願って、東宝により菊田一夫演劇賞が創設された。大衆演劇の舞台ですぐれた業績を示した芸術家に対し、毎年4月に菊田一夫演劇賞が贈られている。
今もなお、格言として語り継がれる菊田の名文句は、1961年(昭和36年)4月~6月にかけて読売新聞に掲載された随筆に拠っている。
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