栃乃洋 泰一(とちのなだ たいいち、1974年2月26日 - )は、石川県七尾市出身で春日野部屋に所属した元大相撲力士。本名は後藤 泰一(ごとう たいいち)、愛称はタイチ。現役時代は身長187cm、体重165kg、血液型はO型。趣味は「読書」。得意手は左四つ、寄り、下手投げ、掬い投げ、突き落とし。最高位は東関脇(2001年5月場所)。現在は年寄・竹縄。
漁師の長男で、小学生の頃から相撲を始める。七尾商業高校(現・七尾東雲高校)を経て、拓殖大学3年生の時には全国学生相撲選手権大会で優勝して学生横綱に輝いた。拓殖大学相撲部監督の兄であり、中学校・高校・大学を通しての先輩である千賀ノ浦親方(元関脇・舛田山)を頼る形で春日野部屋へ入門し、1996年1月場所にて幕下付出で初土俵を踏んだ。出島武春とは小さい頃からのライバル。
1996年11月場所に新十両へ昇進し、その場所で13勝2敗の成績を挙げて初の十両優勝を果たした。1997年5月場所に新入幕を果たすと、翌7月場所・続く9月場所と2場所連続して敢闘賞を受賞する活躍を見せた。そして初土俵から11場所連続となる勝ち越しで同年11月場所には東小結へ昇進した。
1999年5月場所、魁皇の小手投げで左肘を骨折する大怪我を負い翌日から休場する。それでも頼っていた左の代わりに右を使う事が功を奏し、その後も長らく幕内上位に定着して活躍し、2004年くらいまで上位キラーとして名を馳せた。2001年3月場所には東関脇へと昇進、その場所で初めて不戦勝以外で貴乃花に勝ち8勝7敗と勝ち越して初の殊勲賞を獲得した。
2004年9月に千賀ノ浦親方が春日野部屋から分家独立するに際しては共に移籍する話もあったものの、本人の意志により春日野部屋に留まった。同年12月27日に年寄名跡・竹縄を取得した。
2005年7月場所に右大腿屈筋腱損傷により途中休場し、東前頭17枚目の位置まで降下する。翌9月場所では7勝8敗と負け越し、翌11月場所では西前頭17枚目の位置に留まったものの7勝8敗と負け越し、翌2006年1月場所では十両へと陥落した。これにより自身の連続幕内在位記録が52場所で途切れたが、翌3月場所では東十両筆頭の位置で13勝2敗の成績を挙げて2回目の十両優勝を果たし、翌3月場所において幕内へ復帰した。
左四つからの速攻と強力な下手投げを武器とした活躍で、現役時には計12個もの金星を挙げている。1998年は5月場所から9月場所まで3場所連続金星獲得、2000年1月場所で曙に勝ち金星、2001年の3月場所で貴乃花に寄り切りで勝ち、2003年の11月場所で武蔵丸と朝青龍に寄り切りで勝ちダブル金星、2004年の9月場所で朝青龍に突き落としで勝ち金星さらに初の優勝争いに加わる、2008年7月場所、朝青龍に勝ち4年ぶり高見山に並ぶ史上2位タイ記録となる12個目の金星。
現役後期は主に幕内中位から下位にかけて在位することが多くなり、十両への陥落することもあるものの、それでも十両では自身の地力の違いを示していた。2011年7月場所途中に魁皇が現役を引退し、関取における最年長力士となった。東十両8枚目の位置で迎えた2012年1月場所に3勝12敗と大敗して幕下への陥落が濃厚となり、同場所の千秋楽に引退を表明、年寄・竹縄を襲名した。現在は春日野部屋の部屋付きの親方として後進の指導に当たっている。
2022年2月4日、協会は竹縄が新型コロナウイルスに感染したと発表。
甥(姉の息子)の池田俊は大学4年次に2023年12月に行われた第72回全日本相撲選手権大会でアマチュア横綱に輝いている。因みに金沢学院大学からのアマチュア横綱は史上初。
(カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数)
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