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小笠原忠忱


小笠原忠忱


小笠原 忠忱(おがさわら ただのぶ)は、江戸時代末期の大名、明治時代の華族、政治家。位階勲等爵位は従三位勲三等伯爵。小笠原宗家29代当主で、豊前国小倉藩の第10代(最後)藩主、初代藩知事。貴族院伯爵議員。

第9代藩主・小笠原忠幹の次男。正室は上杉斉憲の娘。子に小笠原長幹(長男)、小笠原長丕(次男、兄・小笠原貞孚の養子)、小笠原豊(三男)、照子(津軽英麿正室)、百子(尚昌室)。幼名は豊千代丸。号は錦陵。兄に貞孚(安志藩主)。

生涯

慶応元年(1865年)9月6日、父・忠幹が死去する。しかし、嫡子の忠忱はわずか4歳という幼年であったうえ、翌年には第二次長州征伐も控えていたため、重臣たちは忠幹の喪を秘した。以後、家老の小宮民部、島村志津摩らにより藩政は動かされた。第二次長州征伐では、長州藩の攻撃を受け、慶応2年8月には小倉城に火を放って退却した。同年9月、田川郡香春に政庁を設置した。慶応3年1月、長州藩と講和する。

慶応3年(1867年)6月25日、父忠幹の死亡を幕府に届け、家督を継いだ。慶応4年3月、幼少の忠忱に代わり、重臣を上洛させて、新政府に従う姿勢を示した。同年4月7日、新政府に対し、避難していた熊本藩領から本領に戻ることを申請する。

明治2年(1869年)、豊津藩知事となり、華族に列する。明治4年7月15日、廃藩置県により知藩事職を解任される。明治6年(1873年)1月、明治政府からヨーロッパ留学の許可を得る。明治17年(1884年)には伯爵を授爵された。 明治18年(1885年)、蜂須賀正韶侯爵と徳川慶喜四女の筆子の結婚が決まった際には、礼法の宗家たる力量を発揮。三日間にわたる婚礼や披露宴を取り仕切った。 明治23年(1900年)7月10日、貴族院議員となる。明治30年(1897年)、36歳で死去した。

生前の著書に『小笠原流女礼抄』(1896年)がある。

栄典

位階
  • 1894年(明治27年)6月30日 - 正四位
  • 1897年(明治30年)2月5日 - 従三位
爵位
  • 1884年(明治17年)7月7日 - 伯爵
授章
  • 1887年(明治20年)7月20日 - 金製黄綬褒章
  • 1897年(明治30年)2月5日 - 勲三等瑞宝章

系譜

  • 父:小笠原忠幹(1827年 - 1865年)
  • 母:上田氏
  • 正室:上杉斉憲の娘
  • 生母不明の子女
    • 長男:小笠原長幹(1885年 - 1935年)
    • 次男:小笠原長丕(1891年 - 1968年) - 小笠原貞孚の養子
    • 三男:小笠原豊
    • 女子:照子 - 津軽英麿正室
    • 次女:百子(1896年 - 1950年) - 尚昌夫人

脚注

参考文献

  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。



Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 小笠原忠忱 by Wikipedia (Historical)