小笠原 忠幹(おがさわら ただよし)は、江戸時代後期の大名。播磨国安志藩の第6代藩主、のち豊前国小倉藩の第9代藩主。忠脩系小笠原家11代・小笠原家宗家10代。安志藩主時代は貞幹(さだよし)と名乗った。安志藩の第5代藩主・小笠原長武の次男。
天保10年(1839年)12月14日、父・長武の死去により、家督を相続し安志藩主となった。天保13年(1842年)10月15日、第12代将軍・徳川家慶に拝謁する。同年11月1日、従五位下・兵部少輔に叙任する。後に信濃守に改める。
万延元年(1860年)11月6日、本家の豊前国小倉藩主・小笠原忠嘉の死去により、末期養子として家督を相続し小倉藩主となった。それにともない、長男の貞孚が安志藩主になった。文久元年(1861年)12月16日、従四位下に昇進し、大膳大夫に改める。後に左京大夫に改める。文久3年、14代将軍・徳川家茂が上洛したときは、その警護を務めている。元治元年(1864年)5月5日、侍従に任官し、左京大夫に改める。
第二次長州征伐中の慶応元年(1865年)、39歳で死去した。小倉藩は次男の忠忱が継いだが、忠忱が幼少のため、忠幹の喪は秘された。死去が公にされたのは、小倉城を自焼し、藩庁を田川郡香春に移した後の慶応3年(1867年)だった。
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