中華民国憲法(ちゅうかみんこくけんぽう、正体字:中華民國憲法)は、中華民国の憲法である。世界で唯一五権分立を謳った憲法である。
「中華民国憲法」は、前文および全14章175条で構成されている。
1911年の辛亥革命の結果、1912年1月1日に孫文を臨時大総統とする中華民国臨時政府が成立するが、2ヶ月で袁世凱に取って代わられ、当時憲法の役割を担っていた中華民国臨時約法も改変された。袁世凱の死後(1916年)の軍閥割拠の中で、孫文は広東軍政府を結成し、大元帥に就任した。さらに中国国民党を結成して北京の軍閥政権に対抗するが、1925年3月、「建国方略」、「建国大綱」、「三民主義」、「第一次全国代表大会宣言」の遵守を遺言として客死する。1928年に蔣介石による北伐が終わり、南京に首都が置く国民政府が中国全土を治める政府になると「訓政綱領」が定められ、1931年には国民会議を開催し「中華民国訓政時期約法」が成立した。
1936年5月5日、国民政府は「中華民国憲法草案(五五憲草)」を公布した。そこには、孫文の理論である五権分立が採用されていた。すなわち、国家権力を行政、立法、司法の三権のほかに、考試、監察を加えて五権とし、国民大会に対して責任を負うというものである。しかし、日中戦争が激化したため、憲法制定には至らなかった。
1946年1月10日、双十協定に基づく政治協商会議(旧政協)が開催され、五権分立、基本的人権、総統制の採用などを内容とする「修憲十二原則」が示された。続く3月16日に国民党二中全会において「対修改憲草原則之決議」が採択されたが中国共産党と中国民主同盟などが反対、国民党と青年党・民社党等が参加した制憲国民大会において、12月25日に「中華民国憲法」が制定された。この「中華民国憲法」は、1947年1月1日に公布、同年12月25日に施行された。
憲法は制定されたが、中国大陸においては、共産党と国民党の主導権争いが内戦に発展し、国民党は共産党勢力の制圧を目指して軍事活動を展開した。しかし、憲法を基本法としていたのでは共産党勢力の制圧が不十分であるとして、平時の国家秩序である憲法を修正して戦時体制をとる必要があるとされた。
1948年5月10日、中華民国憲法の付属条項として、動員戡乱時期臨時条款が公布された。2年間を限度として、事実上憲法の諸制度を停止するというものである。ここで、「動員」とは国家総動員のことであり、「戡」(かん)とは、「うちかつ」の意味であり、「戡乱」(かんらん)とは「乱にうちかつ」、すなわち反共産主義のことである。この主要な内容は、動員戡乱時においては、総統は国家や人民が緊急の危難に遭遇することを避けるため、または財政経済上の重大な変動に対応するために、憲法上必要とされる手続きに拘束されることなく行政院の決議を経て緊急処分をなすことができるというものである。
しかし、中国大陸での戦線が共産党の優位に進展し、1949年1月23日に北平(北京)が共産党軍の手に落ちると、国民政府の台湾撤退は焦眉の急となり、同年5月19日、台湾全土に「戒厳令」を布告した。この「戒厳令」は1950年3月14日に立法院の追認を受け、合法化されていった。中国大陸では、北平に続いて南京放棄、上海陥落と中華民国国軍の敗退は決定的となり、蔣介石率いる国民党政府は、1949年7月24日、厦門から台湾の台北に逃れた。この国民党政府の移駐に伴い、中華民国の法体制が台湾に持ち込まれ、日本統治時代の法体制をほぼ完全に取り換えた。従って、この憲法の制定過程において、台湾の住民は全く関与しなかった。
1949年12月7日、中華民国政府は台北を臨時首都に定めたことを宣言し、翌1950年3月1日、蔣介石が総統に復帰し、台湾統治の頂点に君臨するようになった。蔣介石は大陸から軍を率いてきただけでなく、中華民国が大陸に存在していた時に作り上げた法体系を台湾に持ち込んだ。すなわち、制定されたが事実上効力を停止されている「中華民国憲法」と、その効力を停止するに至った「動員戡乱時期臨時条款」である。ここに日本撤退後の台湾では、「戒厳令」と「動員戡乱時期臨時条款」という二重の担保を手にした蔣介石の独占的権力支配が正統化されていったのである。「動員戡乱時期臨時条款」は、制定時には2年間という時限が定められていたが、2年が経過した1950年に自動的に延長された。
なお、蔣介石は1966年に憲法改正の是非を問う臨時国民大会を召集したものの、『大陸奪還前に憲法改正は行わない』という決議が採択されたため、この時提案されていた改憲案の採択は見送られた。
38年間継続していた戒厳令は蔣経国政権下の1987年7月15日に解除され、戒厳令解除後の1989年12月に立法委員の増加定員選挙、県長、市長、台湾省議会議員選挙、台北市・高雄市市議会議員選挙が一斉に行われた。この選挙で結果的に国民党は圧勝したものの得票数は58%に止まり、一方で本格野党として初めて選挙戦を戦った民進党は6県1市で首長の座を獲得し、立法院においても21議席を獲得して法案提出資格を得た。民意が国民党の独裁に反対し、民主化を求めていることが明瞭になった。そこで、1991年4月30日、李登輝総統は「動員戡乱時期臨時条款」の廃止を宣言し、翌5月1日より廃止した。これに合わせて同日「中華民国憲法増修条文」10か条を公布した。この憲法修正は、「一機関両段階」と呼ばれる方式によって行われた。憲法修正手続きを定めた憲法第174条には、国民大会代表の5分の1以上の提案を受け、3分の2が出席し、出席者の4分の3の決議がある場合、又は立法院の提案を受け国民大会が承認した場合に修正できることになっている。しかし当時の国民大会代表は、中国大陸時代に選出されたまま40年間改選されていない万年議員であり、台湾を対象とする民意代表機関とはいえない。そこで第一段階として手続き面での改正を行い、その後第二段階として国民大会代表について民意を代表する機関に改めたうえで実質的な修正を行う必要があった。
1991年4月の憲法修正後、12月には国民大会代表選挙が行われ、民意を代表する形が整えられた。そして1992年5月27日に実質的憲法修正を終え、第2段階に当たる憲法増修条文第11条から第18条がまとめられ、国民大会の手続きを経て、1994年8月1日に公布された。国民大会の地位、総統の職権と選挙方法、司法院、考試院、監察院、地方自治など、大中華民国を前提とする憲法を台湾のみ支配しているという実態に適応させる修正であるが、憲法の条文そのものを改正したのではない。憲法の既存の規定の適用を停止して、修正条文の適用を優先させた。 以下は、中華民国憲法の改正の歴史についての一覧である。
これらの改正により「台湾式半大統領制」と言われる統治体制が確立されるとともに、中華民国憲法の実質的台湾化が図られたとも言える。
第1条で国体を三民主義に基づく民主共和国と定め、第2条で主権は国民全体にあると定める。第2章では人民の権利義務を定め、第3章から第12章で、国家機構および選挙などについて定める。全国国民を代表して「政権」を行使するのが国民大会であり、総統・副総統の選挙・罷免や憲法改正などを担う(第25条・第27条)。そのもとに、元首として規定されている「総統」(第35条)、および行政権を担う「行政院」、立法権を担う「立法院」、司法権を担う「司法院」、公務員や専門家の資格についての試験や任用を担う「考試院」、監察を行う「監察院」という五権を担う「五院」が置かれている。国民大会が置かれていた点では典型的な権力分立ではなかったが、国民大会の権限は限られていたので、基本的には権力分立型の憲法といえる。権力分立、国民主権、男女平等を含む人権規定等から見れば、20世紀型の憲法ということができる。
本「中華民国憲法」下において、立法権は中央政府の立法院と地方の議会にそれぞれ垂直分立されている。中央政府の立法院は、人民を代表して立法権を行使し、憲法改正案や領土変更案の審議権と提出権、緊急命令の追認権、首長任命の同意権、総統や副総統の罷免案や弾劾案の提出権、行政院長に対する不信任案の提出権、および法律案、予算案、戒厳案、赦免案、宣戦案、講和案、条約案ならびにその他の重要事項を議決する権限を持っている。
中央政府の司法院は、台湾の最高司法機関であり、民事訴訟、刑事訴訟ならびに行政訴訟の審判および公務員懲戒の審理を司どり、かつ憲法解釈と法令の統一解釈の権限をもち、また憲法法廷を組織し総統や副総統の弾劾案および違憲政党の解散案を審理する。
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