橋本 拳人(はしもと けんと、1993年8月16日 - )は、東京都板橋区出身のプロサッカー選手。セグンダ・ディビシオン・SDウエスカ所属。登録ポジションはミッドフィールダー(MF)で、ボランチでのプレーを本職とするが、ディフェンダー(センターバック、サイドバック)でも起用される。日本代表。
5歳の時にサッカーを始める。兄の影響でFC東京スクールへ通い始め、2006年より同クラブの下部組織に加入。小学校の時には板橋区を拠点とする、アミーゴFC に所属していた。高いボール奪取能力を持ち、FC東京U-18の主軸として中盤で攻守に活躍した。2011年にはトップチームのキャンプに参加し、その後も2種登録選手として帯同(2010年は登録のみ)。
2012年より正式にトップチームへ昇格。プロ初年度はリーグ戦4試合、ナビスコ杯2試合、天皇杯1試合にベンチ入りを果たすが試合出場は出来なかった。2013年は、安定したプレーとパスによる展開力 を身に付けるべく 主にセンターバックとして練習を重ねており、評価を高めつつあった。
同年5月、出場機会を求めて、この年から始まった新たな移籍制度を利用し、ロアッソ熊本へ期限付き移籍。5月3日のJ2第12節水戸戦で、ボランチとして早速先発出場の機会を得ると、広範囲の守備意識 や攻守の切り替えの速さを発揮し、相手の攻撃の芽を摘む活躍で、早々にチームにフィット。シーズン途中からの3バック採用に伴い、ビルドアップに長けるセンターバックとしても起用された。この後、移籍期間をシーズン終了後まで延長。同年10月に中国・天津にて開催された東アジア大会に参加するU-20日本代表にも招集されていたが、負傷により帰国。同年11月初旬の熊本での練習中に再び負傷、左膝内側半月板断裂と診断され再建手術を受けた。移籍期間の再延長により、2014年も続けて熊本でプレー。ボランチでの出場を続けていたが、シーズン半ばよりDF矢野大輔に代わりセンターバックのレギュラーに据えられた。高いラインを保ち、奪いに行く守備を体現。同年のJ2で最多のタックル数を記録した。なお、Jリーグ・アンダー22選抜の招集リストに登録されていたものの実際に招集されることはなかった。
2015年からFC東京へ復帰。第15節の松本戦でFW(実際は左MF)としてJ1リーグ戦に初先発・初出場し、初シュートが初得点となる初物尽くしの珍記録で 出場試合初勝利を飾った。その後は守備を固める逃げ切り要員として出場を続けていたが、終盤戦にはインサイドハーフのレギュラーに定着。優れたボール奪取能力と強靭なフィジカルを活かした思い切りの良い攻撃参加で好守に貢献した。
2016年は城福浩監督から「どこ(のポジション)でも高いレベルで出来る」と見込まれ 右サイドバックでの出場機会が増加。負傷者の続出するチームを支える貴重な存在として飛躍を遂げる一年となった。リーグ戦後の天皇杯4回戦・ホンダFC戦において右膝半月板を負傷し手術を受けた。
2017年は4月1日のサガン鳥栖戦で今季初得点を記録。7月8日、第18節の鹿島アントラーズ戦では2得点を決め連敗ストップに貢献した。
2018年は石川直宏の背負っていた背番号「18」を着用。5月5日、第13節の川崎フロンターレ戦では先制点を決め、これがクラブのJ1リーグ通算800点目となった。
2019年4月6日、第6節の清水エスパルス戦でJ1通算100試合を達成した。同年は自身初となるJリーグベストイレブンに選出された。
2020年7月9日、ロシア・プレミアリーグ・FCロストフへ完全移籍することが発表された。8月8日、第3節のFKタンボフ戦で初出場を果たした。8月24日、第4節のFCウファ戦では初先発で初ゴールも記録し、MOMに選出された。2021-22年シーズンに背番号を18へ変更した。
2022年ロシアのウクライナ侵攻を受け、国際サッカー連盟(FIFA)は「ウクライナ侵攻の影響を受けたロシア・ウクライナクラブ所属の外国籍選手が所属クラブの合意なしで契約を一時的に停止できる」レギュレーションを制定した。2022年3月27日、このレギュレーションを用いてFCロストフとの契約を停止して日本へ帰国、ヴィッセル神戸へ加入した。
神戸では故障で離脱していたセルジ・サンペールに代わるアンカーとしてアンドレス・イニエスタ、山口蛍と中盤のトライアングルの一角を担い、リーグ戦9試合1得点の記録を残した。
同年7月1日には7月以降の神戸との契約延長を結んだが、その後セグンダ・ディビシオンのSDウエスカからオファーが舞い込み、わずか3週間後の2022年7月18日、ウエスカへの移籍が決定した。J復帰から3ヶ月半、E-1選手権後に再び海外リーグでプレーすることとなった。
2022年8月3日、スペイン2部SDウエスカへの入団を発表。契約は2023年6月末まで。
2016年4月にはリオデジャネイロオリンピックを控えていたU-23日本代表候補合宿に初招集され、長身のボランチとして 攻守に果敢なプレーで アピールに成功。翌5月のガーナ代表戦及びオリンピック本大会招集選手の最終選考の場となった6月のキリンチャレンジカップ南アフリカ代表戦にも出場し、積極的な守備とユーティリティー性を評価された。人数制限 に対応しうる柔軟性や、 外国の大型選手に当たり負けないフィジカルの強さから 本大会選出を有力視されていたが、ACL出場のためにトゥーロン国際大会を回避したことや、既存メンバーの調和を重視した選考がなされたために 選外となった。
2019年3月、守田英正が負傷離脱したため、追加招集でキリンチャレンジカップ2019に臨む日本代表に初選出され、3月26日のボリビア戦にボランチとして初先発した。同年12月にはEAFF E-1サッカー選手権2019に出場する日本代表のメンバーに選出される 等以降日本代表に定着した。
2021年6月3日、予定されていたU-24日本代表とジャマイカ代表の試合が中止となり、急遽行われたA代表対U-24日本代表の試合で得点を挙げた。続く同月7日に行われたアジア2次予選・タジキスタン戦で国際Aマッチでの代表初ゴールを挙げた。
2022年7月13日、EAFF E-1サッカー選手権2022に臨む日本代表に選出され、代表復帰となった。
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