細川 興文(ほそかわ おきのり)は、肥後国宇土藩の第5代藩主。
第3代藩主・細川興生の三男。母は竹間氏(妙禅院)。官位は従五位下、中務少輔。幼名は哲之助。初名は興周(おきちか)。
延享2年(1745年)、嗣子の無かった兄・興里の養嗣子となり、同年の興里の死去により家督を継いだ。この頃、宇土藩でも財政窮乏化が進んでいたが、興文は本家の熊本藩主細川重賢と協力して藩政改革に取り組んだ。興文は櫨などの栽培を奨励し、儒学者の江口恵次郎を招聘して藩校・温知館を創設する。さらに茶道においても小堀長順を招聘して学ぶなど、殖産興業政策や教育制度の確立に尽力した。明和9年(1772年)正月25日、病により家督を三男の立礼に譲って隠居し、月翁と号した。天明5年(1785年)7月5日、63歳で死去した。
文化人としても優れており、隠居した翌年には蕉夢庵を建築し、茶道書である『平置諸品集』や歌集である『桂源遺稿』『自家便覧』など多くの著作を残している。
父母
正室
側室
子女
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