新自由クラブ(しんじゆうクラブ、略称:新自ク、英: New Liberal Club)は、かつて存在した日本の政党。
1976年に自由民主党の河野洋平、西岡武夫らによる超派閥グループ・政治工学研究所所属の国会議員が政治倫理を巡り離党して結成され、10年後の1986年には自民党への合流に伴い解散した。ただ、その後も一部党員は「新自由クラブ」の名称で国政選挙に出馬した。なお、新自由党とは何ら関係がない。
ロッキード事件で田中角栄前首相に捜査の手が及ぶなど政治倫理が大きな政治課題に上っていた頃、既に自民党を離党していた衆議院議員の河野洋平・田川誠一・西岡武夫・山口敏夫・小林正巳と、「自民党はすでに歴史的役割を終えた」として、少し遅れて離党した参議院議員の有田一寿が1976年6月25日に「保守政治の刷新」を掲げて新自由クラブを結成した。
新自由クラブの前身となったのは、河野が自民党内の親中派若手を集って主宰した勉強会「政治工学研究所」で、離党した6人のほか、藤波孝生、橋本龍太郎らも参加していた。なお、藤波は河野の誘いを断って自民党に残留した。
長い間保守系の政党が自民党一党のみだったなかでの新保守政党の結成は、革新政党への支持を躊躇しながらも自民党に不満を持っていた支持層を引き付けた。永田町の相互第10ビルの本部には、早稲田大学雄弁会メンバーなど手伝いをしたいと名乗り出る学生が次々と現れた。結党直後の12月に行われた第34回衆議院総選挙では一挙17人を当選(さらに追加公認1人)させるなど党勢を伸ばした。
しかし、間もなくして新自由クラブの中道政党化を目指す河野・田川らと、非自民の第二保守政党であるべきとする西岡・山口らの政治姿勢の違いから、代表・河野と幹事長・西岡の対立が激しくなった。最後には公に互いを非難しあうまでに発展するが、党内の大半は河野を慕う新人議員で占められており、山口・有田の説得もむなしく、西岡は新自由クラブから離党してしまった。
運営面での混乱が目立ち、政策的にも新味さを打ち出せず、1979年の第35回総選挙では4議席と惨敗した。総選挙後の首班指名選挙では、自民党内が四十日抗争だった中で新自由クラブは自民党総裁の大平正芳を支持して 自民党との閣内連立政権を模索したが、新自由クラブの支持者や野党、メディアから批判を受けて失敗し、河野は代表を辞任。田川誠一が代表に就任した。
一時期同じ少数会派の社会民主連合との反自民共闘を念頭に院内会派「新自由クラブ・民主連合(新自連)」を結成したが、その後会派解消。民社党、社民連との中道政党合流構想を打ち立てるも、いきなり自民党と連携するなど、どっちつかずで政党として明確なスタンスを確立することができなかった。
1983年の第37回総選挙で自民党が公認候補当選が過半数割れすると、自民党との連立政権を樹立。自民党は追加公認を入れると過半数を確保したが、予算委員会で委員長を除いても与党で過半数を占めるためには、新自由クラブの8議席が必要であったためである。1983年12月26日、統一会派「自由民主党・新自由国民連合」を結成し、12月27日成立の第2次中曽根内閣に田川が自治大臣として入閣した。第2次中曽根内閣の発足により、1955年から28年間続いた自民党単独政権が一旦終了した。1984年6月に河野が代表に復帰。第2次中曽根改造内閣では山口敏夫が労働大臣、第2次中曽根再改造内閣では河野洋平が科学技術庁長官としてそれぞれ入閣した。
しかし、1986年の第38回総選挙では自民党が大勝する一方で、新自由クラブの結果は6議席と振るわなかった。再び自民党単独政権となる中で、新自由クラブは解党のうえ、大多数のメンバーが自民党に復帰した。田川は自民党には復党せず、「進歩党」を結成。参議院議員の宇都宮徳馬は無所属で議員活動を続けた。
1989年の第15回参院選では党員だった清水三雄、クロード・チアリ(智有蔵上人)らが政治団体『新自由クラブ』を名乗って出馬したものの、当選者を出せずに終わっている。清水は後に政治団体を『平成龍馬の会』と改称した。
2006年8月、都内で「新自由クラブ同窓会」が開かれ、河野洋平、中馬弘毅、木村勉、石川達男、鳩山邦夫、加地和、鈴木邦彦、浅野目義英、小中進、小島弘、大中睦夫、竹渕康弘、小林成基、山上達也、正藤博久、鈴木公子ら党所属議員OB、党本部職員OB、党所属国会議員秘書、党地方職員OBや、元番記者(岩見隆夫、安広欣記ら)といった多数が参加して旧交を温め、政治刷新を誓い合った。
()内は入閣直前の党役職
(参考文献:石川真澄(一部山口二郎による加筆)『戦後政治史』2004年8月、岩波書店・岩波新書、ISBN 4-00-430904-2)
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