岩倉 具経(いわくら ともつね、旧字体:岩倉具󠄁經)は、幕末の公家、明治期の官僚・華族。
山城国京都で、岩倉具視の三男として生まれる。母は野口為五郎の娘槇子。幼名は八千麿、八千丸。
戊辰戦争に際し慶応4年1月9日(1868年2月2日)東山道鎮撫使副総督を命ぜられ、兄の総督・岩倉具定と共に江戸へ進軍。同年5月20日(7月9日)奥羽征討白河口副総督に任じられたが、同年6月6日(7月25日)若年で勉学につくため免ぜられ帰京。同月、勲功により一家を創設し堂上に列せられた。同年7月15日(9月1日)元服して昇殿を許され勘解由長官に任じられた。1869年6月具定とともに佐賀藩校致遠館に派遣されフルベッキに学ぶ。明治2年6月2日(7月10日)戊辰の戦功により賞典禄200石を永世下賜された。明治3年1月(1870年2月)アメリカ合衆国へ留学、1873年には最初の日本人学生としてオックスフォード大学に留学、1878年1月に帰国。
1878年8月20日、太政官権少書記官・法制局専務となる。以後、兼大蔵権少書記官、大蔵権少書記官兼太政官権少書記官などを歴任。1884年7月8日、男爵を叙爵。同年9月、外務書記官に転じロシア公使館で勤務した。帰国して1890年3月に宮中顧問官に就任したが、同年10月に病のため死去。
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