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小野崎通亮


小野崎通亮


小野崎 通亮(おのざき みちすけ / みちあき、1833年4月18日(天保4年2月29日) - 1903年(明治36年)7月21日)は、幕末から明治期の久保田藩士、国学者、神職、政治家。貴族院勅選議員。通称・鉄蔵。雅号・琴廼屋、烟水、九春軒。

経歴

出羽国秋田郡久保田城下亀ノ丁新町(現秋田県秋田市)で、久保田藩士、郡奉行・小野崎通孝の長男として生まれる。平田篤胤と親交があり神道家であった父通孝から神道を伝えられ、吉川忠行の惟神館で和魂洋才を学び、文久3年(1863年)同志と雷風義塾を設立して講師に就任。慶応4年1月(1868年)藩校明徳館教授兼砲術頭となる。戊辰戦争では吉川忠安らと勤皇を主張して藩論を導き、遊撃隊参謀として秋田戦争に従軍した。慶応4年8月、南部口を担当し、砲術所総裁・須田盛貞を補佐した。

その後、評定奉行から公議人に転じて上京し、明治2年(1969年)神祇官に出仕し判事試補に就任。権大史、権少佑を歴任し、明治3年2月(1870年)秋田藩大参事に転じた。明治4年(1971年)の廃藩置県により退官し、1873年(明治6年)8月、県社八幡神社の祠官に就任した。その後、大教院勤務、神道事務局勤務、教導職権大講義、秋田県神道触頭、教導職取締、神道事務分局長、招魂神祠官、権少教正、神宮第五教区教会長、神宮教四等教監、古四王神社宮司などを務め、1890年(明治23年)8月、秋田県皇典講究所分所長に就任した。

1897年(明治30年)12月23日、貴族院議員に勅選され、死去するまで在任した。

1908年(明治41年)、従四位を追贈された。

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
  • 家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典 第1巻』新人物往来社、1993年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
  • 大植四郎編『明治過去帳』新訂初版、東京美術、1971年(原著私家版1935年)。

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 小野崎通亮 by Wikipedia (Historical)



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