大韓民国憲法(だいかんみんこくけんぽう、韓: 대한민국 헌법 / 大韓民國憲法)は、大韓民国の成文憲法である。
現行の憲法は第六共和国憲法(제6공화국 헌법)とも別称され、1987年10月29日に採択された。
大韓民国憲法は大韓民国成立以前の1948年7月12日に制定され、同年7月17日に公布された。起草者は兪鎮午。それ以降、大韓民国憲法は9回にわたって改憲され、特にそのうちの5回におよぶ改憲は韓国の国家体制を大きく変えるほどの修正がなされた。そのため、5回におよぶ改憲は韓国政体の歴史的な一区切りとされ、それぞれの時期に存続していた憲法には第一から第六までの番号が憲法の通称として付けられている。
大韓民国憲法の9回に及ぶ改訂は、1950年代の李承晩による強権独裁政治、1960年代-1970年代の朴正煕による強権独裁政治、そして1980年代の全斗煥による独裁政治とそれに対する民主化運動の帰結という政治的な一連のできごとと密接に関連している。そのため、韓国憲法史は激動の韓国政治史を象徴していると見ることができる。
大韓民国憲法の制定は、1948年5月10日の総選挙後、同年6月1日の第一回国会で設置された「憲法起草委員会」が憲法草案を国会に提案する形式で進められた。これにより成立した憲法のことを韓国では制憲憲法と呼称している。当初の原案では、国会の二院制、議院内閣制(責任内閣制)、大法院(最高裁判所)による違憲立法審査が主な内容として盛り込まれていた。しかし、国会議長であった李承晩の圧力によって成立した憲法の主な内容は、国会の一院制、大統領制、憲法委員会による違憲立法審査や統制計画経済などへと大きく修正された。この憲法により、大統領は任期が4年とされ、国会議員の間接選挙によって李承晩が選出された。もっとも、大統領は国務総理の選出に国会の同意が必要であり、制憲憲法下の大統領制度は大統領制に議院内閣制の要素を加えた折衷型の権力制度となっていた。
朝鮮戦争直前の1950年5月に行われた第2代国会議員選挙で、単独政府作りを推し進めた李承晩に批判的な中道派や南北協商派が多数当選し、国会議員による間接選挙では自身の当選が危うくなったことから、大統領の選出方法を間接選挙から、国民による直接選挙制に改める必要性に迫られて行われた憲法改正である。朝鮮戦争最中の1951年11月30日に最初の憲法改正案を国会に提出した際は圧倒的多数(賛成19名、反対143名、棄権1名)で否決された。その後、白骨団や民衆自決団などの政治ヤクザが国会への抗議デモを行い、1952年5月に臨時首都となっていた釜山一円に戒厳令を布告し、国会議員多数が国際共産党関連嫌疑で検挙され、国会議事堂周辺を警察や政治ヤクザが包囲する中、1952年7月4日に圧倒的賛成多数(賛成163、反対0、棄権3)で可決されて成立した(釜山政治波動)。なお、この憲法改正は与党側が主張する大統領直選制改憲案と野党側の責任内閣制改憲案の両方から改憲条項を抜粋して作られた改憲案であるため、通称「抜粋改憲」と呼ばれている。この改憲に対しては憲法に規定された事前公告手続の不履行や読会手続が欠けるなど手続的な瑕疵があるという指摘が多い。
1954年5月20日に行われた第3代民議院総選挙で与党・自由党は過半数を上回る議席を得た。そのため、政府と与党は李承晩大統領の三選を可能とするための改憲案を国会に提出したが、11月27日の評決では、在籍議員203名中、賛成135名、反対60名、棄権7名で、憲法改正に必要な136名に1人足らなかったため、国会議長は否決を宣言した。しかし、自由党はいったん否決された改憲を数学の四捨五入原則を持ち出して(203議席の3分の2は135.3であるから四捨五入した135議席が議決定足数であるとして)、11月29日に、27日の否決を取り消し、可決されたことを宣言し、改正案は国会を通過し、宣布された。
1960年3月15日に実施された正副大統領選挙(通称:3.15不正選挙)における大規模な不正をきっかけにした学生と市民の反発が4月革命へと発展し、李承晩大統領は退陣に追い込まれた。直後の5月2日、許政を内閣首班とした過渡政府が発足し、国会に憲法改正のための憲法改正起草委員会が構成され、議院内閣制を骨格とする改憲案を6月11日に国会に提出し、同月15日に国会を通過し、同日付で公布された。
3.15不正選挙を主導した首謀者と不正選挙に抗議した市民を殺傷した警察官などを処罰する目的で、憲法に刑罰不遡及の原則に対する例外規定が新設された。
張勉政権の与党である民主党内部の派閥争いや、デモの多発で国内が混乱状態を迎え、朴正煕将軍を中心とする軍部の一部が1961年5月16日に軍事クーデター(5・16軍事クーデター)を起こし、張勉政権を倒して三権を掌握した。軍部は国家再建措置法で国政を運営しつつ、第二共和国憲法も同法に反しない範囲において、その効力を認めるようにした。
クーデター翌年、軍政当初の革命公約に基づいて民政移管のための憲法改正作業を進め、1962年12月17日の国民投票で憲法改正案は承認・確定した。
第6次憲法改正は1962年の第5次改正において「大統領は1回に限って再任することができる」としていた3選禁止規定を撤廃し、朴正煕大統領の3選を可能とするために行われたものである。1969年9月14日深夜、与党・民主共和党の国会議員のみで強引に採決し、国会を通過させた。そして、同年10月17日に行われた国民投票において投票者全体の65%余りの賛成で確定し、10月21日に公布された。
1971年の大統領選挙で朴正煕大統領は3選を果たした。しかし、最大野党である新民党の大統領候補である金大中に激しく追い上げられた上に、直後に行われた国会議員選挙において、新民党が改憲阻止線の3分の1を大幅に上回る議席を獲得したことで、任期を延長するための憲法改正が事実上不可能になった。そのため、朴は1972年10月17日に非常戒厳令を全国に宣布した上で、国会の解散、政党などの政治活動を中止するなど憲法の一部条項の効力を停止、停止された機能を非常国務会議が代行するといった「10.17非常措置」を断行した。その上で、非常国務会議は1972年10月27日に憲法改正案を公告し、翌11月21日に国民投票での承認を経て、12月27日に公布された。この時の憲法改正は第七次改正で、通称「維新憲法」と呼ばれた。
1979年10月26日に朴正煕大統領が暗殺(朴正煕暗殺事件)された後、12月12日の粛軍クーデター、翌1980年5月の5・17クーデターで政治の実権を掌握した新軍部は、光州事件を鎮圧した直後に全斗煥将軍を委員長とする国家保衛非常対策委員会(国保委)を設置し、大統領を辞任した崔圭夏の後を継いで1980年9月1日に全斗煥が大統領に就任した。全の下で進められた憲法改正案は10月22日に国民投票で承認され、10月27日から施行された。
大統領直選制と基本権保障の拡大・強化を強く求めていた国民の改憲要求を当時の与党であった民主正義党の盧泰愚代表委員が1987年の6・29民主化宣言の形態で受け入れたことで行われた第9次の改憲である。6・29宣言の後、与野党間の政治協商を経て、合意改憲案が準備され、10月27日の国民投票で確定、29日に公布された(施行は翌1988年2月25日)。この9次改憲は、与党と野党の合意でなされたという点で非常に重要な意義を有し、以降、今日まで存続している。
現行憲法は、前文と本文10ヶ章130箇条、附則6箇条で構成されている。前文には憲法の成立した由来と基本的精神を明記し、本文には第1章「総綱」、第2章「国民の権利と義務」、第3章「国会」、第4章「政府」、第5章「裁判所」、第6章「憲法裁判所」、第7章「選挙管理」、第8章「地方自治」、第9章「経済」、第10章「憲法改正」の順で規定されている。
悠久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民は3・1運動で成立した大韓民国臨時政府の法統と、不義に抗拒した4・19民主理念を継承し、祖国の民主改革と平和的統一の使命に即して正義、人道と同胞愛を基礎に民族の団結を強固にし、全ての社会的弊習と不義を打破し、自律と調和を土台とした自由民主的基本秩序をより確固にし、政治・経済・社会・文化のすべての領域に於いて各人の機会を均等にし、能力を最高に発揮なされ、自由と権利による責任と義務を果すようにし、国内では国民生活の均等な向上を期し、外交では恒久的な世界平和と人類共栄に貢献することで我々と我々の子孫の安全と自由と幸福を永遠に確保することを確認しつつ、1948年7月12日に制定され8次に亘り改正された憲法を再度国会の議決を経って国民投票によって改正する。
第1章では韓国の国体、領土、国民を規定する他、侵略戦争の放棄や公務員の地位など国家を形成する基本概念を規定している。
第2章では国民の義務と権利、事後法の禁止や一事不再理の原則を規定している。日本と大きく異なる内容として、第39条で国防の義務が明記されており、徴兵制の基礎となっている点が挙げられる。また、第12条で緊急逮捕が明文化されていることも特徴である。
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