ミューレル(Müller)こと、ルイス・アントニオ・コレイア・ダ・コスタ(Luiz Antônio Correia da Costa、1966年1月31日 - )は、ブラジル・マットグロッソ・ド・スル州カンポ・グランデ出身の元サッカー選手。
愛称のミューレルは「爆撃機」と呼ばれた元西ドイツ代表の名ストライカーゲルト・ミュラーに由来する。
オペラリオFC (マットグロッソ・ド・スル州)のユースチームで本格的にサッカーを始めた。1985年、18歳時、サンパウロ州選手権の決勝、ポルトゲーザ戦で決勝ゴールを決めて注目されるようになった。
1988年、アントン・ポルスターの後釜としてトリノが獲得した。入団会見では、「リーグ優勝をするためにここに来た。」と宣言した。トリノはこの時、もう一人のブラジル人である、エドゥー・マランゴンを獲得した。開幕のサンプドリア戦では1アシストを決め、10月30日のフィオレンティーナ戦で初得点を決めた。プライベートでは、婦人と毎晩の様にディスコに繰り出し、疲れて力の無い状態でトレーニングに参加したり、トレーニングに遅れることもあった。また、婦人がトリノでの生活に退屈し、ブラジルに子供を連れて帰国したり、ミューレルもクリスマス休暇でブラジルに帰国したまま、帰国予定日になってもチームに戻らず、ユヴェントスとのダービーを欠場した。それでも、リーグ戦31試合で11ゴールを挙げたが、チームはセリエBに降格した。シーズン終了後、ASローマからオファーを受けたが、チームの新会長が残留を望んだため残留した。セリエBの舞台で27試合で11得点を挙げ、翌シーズンのセリエA複帰に貢献、フィオレンティーナ、ナポリも獲得に興味を示していたが、チームと3年間の契約延長をした。1990-91シーズン途中、ACミラン戦で戦術的理由でベンチスタートとなると、退団を求め、ブラジルに帰国した。
1991年2月にサンパウロFCへ複帰。1992、1993年にリベルタドーレスカップ、トヨタカップの優勝に貢献した。1992年のトヨタカップ、FCバルセロナ戦ではライーのゴールをアシスト、1993年大会のACミラン戦では決勝点を決め、3-2での勝利の立役者となった。サンパウロ所属時、ブラジルリーグでの最高年俸となる、8000万円を得ていた。
1986年3月12日にはブラジル代表として、ドイツ戦で代表デビューを果たした。FIFAワールドカップには3大会に出場、1986年大会は5試合に出場、1990年大会ではグループリーグのコスタリカ戦、スコットランド戦でそれぞれ1ゴールを決めている。1994年USA大会ではトップコンディションを維持していたものの、ロマーリオが大会を前にツートップを組みたくないと宣言したこともあって、試合出場は僅か1試合のみあったが、世界一に輝いた。
1995年に柏レイソルに移籍、「新しい刺激と挑戦を求めてレイソルを選んだ。自分が試合に出た時は全力を尽くす。」と意気込みを見せていた。ゼ・セルジオ監督は「カレッカがプレー出来ない試合ではカレッカの役割でプレーさせたい、カレッカとのツートップは他チームにとっては恐ろしいものになるはずだ。」と話していた。そのカレッカとは数試合でツートップを組んだ。第3節ヴェルディ川崎戦でJリーグ初ゴールを決め、このゴールによりレイソルはJリーグ加入後初勝利を挙げた。第4節横浜フリューゲルス戦で2ゴール、しかし家庭の事情で、12節セレッソ大阪戦でのプレーを最後に退団した。以降ペルージャなどでプレー。
最初の婦人ジュサラは、ブラジルのテレビ番組「Cassino do Chacrinha」のダンサーで、3人の子供をもうけたが、後に離婚した。その後もう一度離婚歴がある。2022年現在は、ブラジルのテレビ局のコメンテーターを務め、3回目の結婚で一緒になった婦人と静かな生活を送っている。
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