『日本百名山』(にほんひゃくめいざん)は、文筆家(小説家のち随筆家)で登山家だった深田久弥が実際に登頂し、日本の各地の山から定めた基準で100山を選び主題とした山岳随筆集である。
初刊は1964年7月に新潮社で出版。第16回読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞した。
計100座の日本の名峰各座が4頁(2000字)程度に巧みにまとめられた随筆であるが、山の地誌、歴史、文化史、文学史、山容に関する研究書であり、山格を論じたものであり、登頂にいたる過程の随想であって、紀行文集とは異なる。山の選定は、深田の登山経験によるもので、1942年の『山頂山麓』、1948年の『わが山山』1952年の『をちこちの山』、1959年の『わが愛する山々』などの山岳紀行がもとになっている。本書における山の記述が、登山解説書や様々なホームページで引用されることがある。登山記(紀行文)として見たときの『日本百名山』は、他の著名な山岳随筆であるウォルター・ウェストン『日本アルプスの登山と探検』や、小島烏水・志賀重昂・田部重治・冠松次郎・串田孫一などの諸作品と比較すると、一座あたりの文章量は少ない。
日本の多くの山を踏破した本人の経験から、「品格・歴史・個性」を兼ね備え、かつ原則として標高1500 m以上の山という基準を設け、『日本百名山』を選定した。1961年(昭和36年)に上高地で開山祭である「ウェストン祭」の講演で日本百名山の選定基準を披露している。
また「本人が登頂した山であること」が、絶対条件となっている。少年の頃から約50年の間に相当数の山に登っていて、多くの山を知っている点に自信を持っていた。
前記の基準に加えて、観光的に開発されつくして「山霊のすみかがなくなっている」ような山は選ぶわけにはいかないと述べ、中学時代を過ごした福井県の荒島岳に触れて、「各県から代表の山を選ぶ」というような考えも持っていたとしている。なお、47すべての都道府県から選んだわけではなく、百名山の存在しない都道府県も、西日本を中心に16府県に及んでいる。及第すれすれの山を選ぶ心情を「愛する教え子を落第させる試験官の辛さに似ていた」と述べている。
「自分の選定の試みは、旅行業界が観光振興のために選んだ「名勝百選」のようなものに比べれば正確だ」と自負する一方、自分の基準が唯一の妥当な選定基準ではないことも認めていた。新潮文庫版の「日本百名山」では、解説者の串田孫一が、「読者が自分で百名山を選定する際のたたき台として使えることもこの本の魅力」という意見を述べている。
北海道では9座が選定され、他にウペペサンケ山、ニペソツ山、石狩岳、ペテガリ岳、芦別岳、駒ヶ岳、樽前山なども有力な候補としていたが、登頂していないことにより除外された。東北地方では、秋田駒ヶ岳と栗駒山も候補としていて、森吉山、姫神山、船形山は標高が低いことから除外された。上信越は最も選定に迷った地域で、女峰山、仙ノ倉山、黒姫山、飯縄山、守門岳、荒沢岳、白砂山、鳥甲山、岩菅山なども候補としていた。日本アルプスからは28座が選定されたが、雪倉岳、奥大日岳、針ノ木岳、蓮華岳、燕岳、大天井岳、霞沢岳、有明山、餓鬼岳、毛勝山、大無間山、笊ヶ岳、七面山なども候補としていた。北陸地方では、笈ヶ岳と大笠山を入れるべきと考えていたが、登頂していなかったため除外された。自身の出身地では、荒島岳と能郷白山から前者を選択した。関西地方では、藤原岳と比良山が標高が低いため除外され、御在所岳は山頂が遊園地化し世俗化していたため除外された。中国地方では氷ノ山を次の候補としていて、蒜山や三瓶山などなだらか山が多く物足りなく感じ、鳥取県の大山1座のみの選定に至った。四国では迷うことなく、石鎚山と剣山を選定した。九州では由布岳、市房山、桜島も候補となっていた。
深田が百名山の有力な候補として上げた山の多くは、後に深田のファン団体「深田クラブ」が選定した日本二百名山に選定されている。
深田は、第二次世界大戦前には日本のめぼしい山にすべて登っており、その中から百名山を選ぶという構想を持っていた。全国88座の山を記した谷文晁の「日本名山図会」を念頭に置いたともいわれる。1940年(昭和15年)3月から、出版社であった朋文堂から山岳雑誌の『山小屋』で日本百名山の初期の構想であった連載を始めた。その初回で「日本百名山を選ぶのは、多年の僕の念願であった」と記載して、400-600字程度の短編に自身が撮影した写真を付けて、毎月2座合計以下の20座の連載が行われた。
1947年より東京新聞出版局から創刊されている山岳雑誌の『岳人』では奥山章、冠松次郎、辻村太郎ら54名のアンケートにより1年余りかけて選考が行われ、1953年(昭和28年)の3月号(59号)で「岳人選定による日本百名山」がまとめられた。78座が、後に出版された深田久弥による『日本百名山』と一致していた。標高1500 m以上であることをあくまでも原則として、山容のよいこと、景勝地であること、山頂からの展望が優れていることなどが選考条件となり、特に「登山の対象として面白い」が主眼とされていた。
1959年(昭和34年)3月から、朋文堂の雑誌『山と高原』で毎月2座の日本百名山の連載が始まった。山の地誌・歴史、文化史、文学史、山容、自身の登頂記などを2000字程度に簡潔にまとめ、50回連続して1963年(昭和38年)4月号まで書き継がれた。初回は鳥海山と男体山、最終回は筑波山と富士山だった。山の愛好者から好評を得て、この雑誌の読者による人気投票で第1回読者賞を獲得した。その後、1年余りの推敲が重ねられて、1964年(昭和39年)に新潮社から『日本百名山』の単行本が出版された。各山の文章中に、山周辺の地図と山の白黒写真が挿入された版もある。好評を得て、深田のこの著書が第16回読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞した。その贈賞式は1965年(昭和40年)2月6日に、読売会館で行われた。
深田はこの本の出版後も相変わらず山に登り続けて、ぜひ百名山に入れたいと思ういくつかの山を知った。それらは標高としては第2線級ではあるが、その山容の美しさや品格のある点では3000 m峰にも劣らなかったと記している。1971年(昭和46年)に出版された山岳紀行エッセイ集『山頂の憩い-「日本百名山」その後』では、20座程が紹介された。ニペソツ山については、「日本百名山を出版した時、この山をまだ見ておらず、ニペソツには申し訳なかったが百名山には入れなかった。実に立派な山であることを登ってみて初めて知った。」と記載している。多くの人の意見を聞いて若干の山の差替えをするつもりのようであったが、結局1964年の出版後に百座の入替えが行われることはなかった。『山頂の憩い-「日本百名山」その後』が遺作となり、1971年3月21日登山中の山梨県の茅ヶ岳にて、脳卒中で急逝した。
なお、本書につづいて深田は、1970年(昭和45年)に山岳雑誌『岳人』の1月号(第271号)から『世界百名山』の連載を始めた。41座まで書かれたところで急逝し未完成となったが、『世界百名山―絶筆41座』が新潮社より出版された。 登山史の深い検証や幅広い文献収集を土台としており、日本百名山以上の名著とする評価もある。
1982年(昭和57年)から、茅ヶ岳山麓の山梨県韮崎市で深田の遺徳を偲ぶ碑前祭である『深田祭』と記念登山のイベントが毎年実施されている。 2002年(平成14年)12月に、石川県加賀市大聖寺に「深田久弥 山の文化館」がオープンした。
2007年(平成19年)には屋久島のガイド・島津康一郎が日本百名山を48日間(6月14日~7月31日)で連続踏破し、平田和文が2002年に達成していた最短記録(66日間)を更新した。2014年には山岳ガイドの藤川健がさらに記録を短縮し、33日間(9月1日~10月3日)という日本百名山登頂の最短記録を達成した。
個人の日本百名山の登頂記の書籍が多数出版されている。
本書は紀行文集でも案内書でも、まして登山入門書でもないのだが、この本を通じて、今まで知らなかった日本の山々の魅力を知り、自分もこれらの山に登ってみようという人たちが、登るべき100の山の指標だという勘違いから「日本百名山ブーム」が起き、現在も継続している。百座のうち自分がいくつ登ったか増えていくのを楽しみにしている読者もいる。ただし、深田久弥自身は戦前以来の経験豊富な仲間との奥深い「避衆」登山を好み、一方で第2次RCCの奥山章などの若い世代のパイオニア的な登山も背後から奨励していただけに、そのような登山初心者の風潮にいささか困惑していた。
一方、自分で山岳の探究をせずに「日本百名山」だけに人々が群がり、シーズン中の百名山周辺の山小屋が旅行会社のツアー客も交えて混雑し、登山道が荒廃するような山登りのありかたを批判する意見もある。もとより深田久弥の「罪」とされているわけではないが、国内外で1500座以上の山岳を登頂した山歴を持つ今西錦司は、百名山は深田がいわば酔狂と身びいきで選定したもので、基準も関東中心で絶対的ではないとした。そして、筑波山のように東京から見える山ではなく、標高も1500メートルにも満たない低山ではあるが、生態系の多様性や歴史・伝承に満ちた集落を有し、「日本百名山」に匹敵する立派な山が京都北山の奥深くにあるのを知っている。しかし、「深田百名山」のように荒らされると困るので、どこの山なのかは絶対に書かないと、京都学派らしく皮肉っぽく述べている。
深田久弥の『日本百名山』に記述されている百座を、その順に以下のリストに示す。国立公園内にある山、各都道府県の最高峰、火山などが多数含まれている。3000 mを越える山が13座含まれている。高い山が少ない西日本の山の選定数は少なく、選定されていない都道府県が多数ある。
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昨今では様々な“名山”が選定されたり、書籍・冊子として刊行されたりするようになった(数は百ちょうどとは限らない)。以下にその例を挙げる。
この他に、北海道百名山、東北百名山、うつくしま百名山、山梨百名山、関西百名山、四国百名山、九州百名山など各地の百名山、岩崎元郎選の「新日本百名山」、小林泰彦選の「日本百低山」などもある。飛騨山岳会では創立100周年を記念して2008年9月、『飛騨百山』を出版した。他にも下表に示す地元の自治体、山岳会、出版社及び新聞社が選定した各県や地方の百名山などがある。2002年には、山岳写真家の白川義員が中心となり『世界百名山』を選定した。
日本全国の百名山が複数あり、特に読売文学賞を受賞した深田久弥の『日本百名山』はよく知られている。
『日本百名山』の本は多数重版され、改版や新装版も出版されている。深田久弥自身の著書の他に、深田久弥に関するものや、日本百名山のすべての山を解説する登山ガイド本などが多数出版されている。他にも、ビデオ・DVDなども、多数出版されている。
trans. by Martin Hood One Hundred Mountains of Japan (University of Hawaii Press 2014)
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