新生党(しんせいとう)は、かつて存在した日本の政党。
自由民主党を離党した直後の国会議員を主体に結成された政党としては最大規模である。新生党の分離により衆議院議席の過半数を割った自民党は結党以来初めて下野した。新生党は非自民連立政権に参加するが、自社さ連立政権成立により下野し、新進党に合流した。
1993年(平成5年)6月、宮澤改造内閣不信任決議案に賛成、可決させた羽田派(改革フォーラム21)所属の国会議員である羽田孜、小沢一郎らがに自民党を離党して結成した。理念は「自立と共生」。政策は小沢の著書『日本改造計画』を踏襲したもので新保守主義的であり、結党宣言で「新しい保守主義」を標榜する。
非自民8党7会派による38年ぶりの政権交代を主導した。連立与党時代(細川護煕内閣・羽田孜内閣)は公明党と共同歩調を取り、「新生・公明グループ」・「一・一ライン」(小沢一郎・市川雄一の名に因む)と呼ばれた。
1994年(平成6年)12月に新進党の結党に伴い解散。
当初は党名として「創新党」「自由新党」などが有力視されていた。前者は羽田が提案したが語呂が悪いなど評判が良くなく、後者は同じ名前の政治団体が自治省(現・総務省)に先に届けられていたため使えず、補欠候補だった「新生党」に決まった。公式の英語名称はJapan Renewal Partyだが、ジャパンタイムズなどはShinseitoと表記していた。略称は新生、JRP。
6月18日、自民党・羽田派の衆議院議員が宮澤改造内閣の不信任案に賛成し、可決。宮澤喜一は解散・総選挙に打って出る(嘘つき解散)。
6月22日、羽田は自民党本部に梶山静六幹事長を訪ね、集団離党届を提出。衆議院議員は、態度を保留していた木村守男、旧田中派事務総長の小沢辰男を含めた36人、参議院議員は北澤俊美ら8人の計44人。
6月23日、赤坂プリンスホテルで羽田は記者会見を開き新生党の結党宣言を行った。党首は羽田孜。幹事長に当たる代表幹事に小沢一郎が就任した。ところが小沢が会見場に姿を見せなかったことから、黒幕的存在を強く印象づけた。記者から「小沢が出席していないことはちょっと無責任では?」と問われると羽田は「無責任ということはね、そういう言い方はないんであってね」と反論している。 かつて批判の集中した「権力の二重構造」が再び新生党に持ち込まれたとも言われ、内閣官房長官の河野洋平は「改革すべきはあの人たちの体質そのものじゃないか」と記者会見で怒りを顕わにした。
6月27日、東京都議会議員選挙実施。獲得議席なし。
7月18日、第40回総選挙で55議席を獲得、自民党223議席と社会党70議席に次ぎ、公明党51議席を上回って、衆院第三党となる。
8月9日、非自民・非共産8党派による細川内閣発足。新生党は閣僚5ポストを得る。11月18日、参院会派「日本新党・民主改革連合」と統一会派「日本・新生・改革連合」結成。
1月29日、選挙公約だった政治改革四法が成立。2月4日、参院会派の「民社党・スポーツ・国民連合」と、統一会派「新緑風会」を結成。
4月8日、細川護熙が辞意を表明。15日、新党さきがけが次期政権では閣外協力に回ると表明。
4月25日、細川内閣総辞職。日本新党・民社党・自由党の各党ならびに衆院会派の改革の会と、統一会派「改新」を結成。26日、「改新」の結成に社会党が強く反発し、連立を離脱。28日に羽田内閣が少数与党内閣として発足。新生党は総理+閣僚8ポストを得る。
6月25日、羽田内閣総辞職。29日に首班指名選挙に海部俊樹を擁立するが、決選投票で社会党委員長の村山富市に敗れる。30日、自社さ連立政権の村山内閣が発足、新生党は野党に転落。
9月28日、衆院会派「改革」を結成。11月16日、全国代表者会議で新生党の解党と新党への参加を決定。
12月9日、新生党解党。12月10日、新進党結党。
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