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1950 FIFAワールドカップ


1950 FIFAワールドカップ


1950 FIFAワールドカップ(英: 1950 FIFA World Cup)は、1950年6月24日から7月16日にかけて、ブラジルで開催された第4回目のFIFAワールドカップである。この大会は唯一、決勝ラウンドもリーグ戦で開催された。第4回大会以後、FIFAがジュール・リメの会長就任25周年を讃えて、優勝杯がジュール・リメ杯と公式に呼ばれることになった。

予選

出場国

出場選手は1950 FIFAワールドカップ参加チームを参照。

本大会

概要

第二次世界大戦により、ワールドカップは1938年から中断されており、またヨーロッパの大部分が未だに復興途上であった。このため、唯一の立候補であり、欧州と違い戦争被害がなく、また未開催となった1942年大会の開催地としてドイツと並び立候補した実績のあったブラジルが大会の開催権を得た。

当初は16か国の参加を想定、開催国のブラジルと、前回大会優勝のイタリア以外は、欧州から7、アメリカ州(北中米および南米)から6、アジアから1が選出される予定だったが、辞退国が多発したため、グループ配分が崩れ、グループDのように2カ国で争ったところから、グループAやBのように4カ国が争ったところまで様々であった。

インドは、インドネシア、フィリピン、ビルマ各国の参加拒否により、自動的に予選なしでアジア枠からの参加が決定していたものの、裸足での試合参加をFIFAに拒否されたという理由で、大会直前に参加を辞退したため、結果的にアジアからの本大会参加国はなかった。その後、1952年ヘルシンキオリンピックの後、サッカー競技規則第4条競技者の用具の項でシューズ着用義務が明確に規定されるようになった。このように長年にわたって、FIFAに裸足でのプレーを拒まれたため、インドが今大会を棄権したものと考えられてきたが、2011年のロサンゼルス・タイムズ紙によると、「一番の大きな理由は、当時のインドにとっては、オリンピックのみが重要で、FIFAワールドカップの重要性を認識していなかった財政難のインドサッカー連盟(AIFF)がオリンピックに集中したかった為」とある(もう一つの棄権理由だったブラジルへの旅費も、実際はワールドカップ組織委員会が大部分を負担すると約束していたことが分かっている)。

南米各国も、ブラジルサッカー協会との間に問題を抱えていたアルゼンチンサッカー協会が同国代表の参加を拒否、他にもエクアドルとペルーが参加を拒否したため、ウルグアイ、チリ、パラグアイ、ボリビアの4か国が予選なしで自動的に参加決定となった。

また、戦前に開催された大会で好成績を収めた国の中には、1934年大会の準優勝国チェコスロバキアや、1938年大会の準優勝国ハンガリーなど、戦後になりソビエト連邦の影響で共産主義政権下(いわゆる「鉄のカーテン)に入った東ヨーロッパ各国もあったが、これらの国はソ連代表と歩調を合わせ予選参加を拒否した。

連合王国を構成するイギリスの各サッカー協会が、大会の4年前に17年間の孤立からFIFAに復帰し、特例として1949年から1950年にかけて行われたブリティッシュ・ホーム・チャンピオンシップの1位と2位のチームが参加することとなった。1位がイングランド、2位がスコットランドであったが、スコットランドサッカー協会は優勝チームとしてでなければ参加を辞退すると事前に表明、結果2位だったため協会会長が不参加を決定し、当時のスコットランド代表キャプテンが協会会長に翻意するよう訴えたが認められず辞退となった。トルコも参加を辞退した。インドと合わせたこの3カ国の辞退に対し、FIFAは欧州予選で出場国に次ぐ成績を上げていたフランス・ポルトガル・アイルランドに対して補充参加を要請したが、ポルトガル、アイルランドは辞退、フランスは一旦参加を表明し、グループDで試合をすることまで決まっていたものの結果撤退した。フランスは「4日間に3500kmも離れた都市を転戦しなければならない」ことを理由に、参加を辞退した。広大なブラジル国内では飛行機移動が一般的なことを知らなかったからという。ただ、本当の理由は当時はフランス経済が困難な状況で、さらに大会直前の練習試合で連敗したためといわれている。 大会は13カ国、しかも1次リーグの参加国数が2-4で不揃いのまま行われることになった。ディフェンディングチャンピオンのイタリアは、参加はしたものの、前年に発生したスペルガの悲劇の影響で、ブラジルまでの渡航に航空機ではなく船舶を使用した。

また、第二次世界大戦での敗北後、連合国軍による占領下にあったドイツと日本は大戦中の1945年に両国サッカー協会が会費未払いなどの理由で除名され、同大会の予選開始までに復帰できず、事実上参加を拒否された。当時フランス占領下にあったザール保護領(現在のドイツ・ザールラント州)では、1948年にザールラントサッカー協会が結成、代表チームも組織されてはいたが、同協会のFIFA加盟が許可されたのはワールドカップ本大会開催の2週間前だったためこちらも間に合わなかった。

本大会の前には各協会の主力チームをそろえたイギリス代表がヨーロッパ代表を親善試合で6対1で破っており、イングランドは全13か国中唯一の初出場ながら優勝候補の1つに数えられた。しかし、大会では1次リーグの2戦目でアメリカ合衆国に1対0で敗れると、続くスペイン戦にも1対0で敗れ、グループリーグで姿を消した。アメリカへの敗北は当時のイギリスでは考えられないことであり、新聞に結果が記載されると、印刷ミスであるとして新聞社に抗議の電話が殺到した。「FIFAワールドカップ史上最大の番狂わせ(世紀のアップセット)」と呼ばれている(アメリカ VS イングランド (1950 FIFAワールドカップ))。

決勝は、ノックアウト方式ではなく、再び総当たりのリーグ戦で行われた。これはスタジアム建設に多額の投資を行ったブラジルサッカー協会側からの試合数増加を狙った提案に基づくもので、当初FIFAは難色を示したものの、ブラジルサッカー協会がこの提案が拒否された場合大会の開催自体を拒否するという脅しとも取れる意思表示をしたため、他に代替開催国のあてもなく、戦後初となるワールドカップを是非とも復活させたかったFIFA側が折れた形となった。1次リーグ各組で1位だったブラジル、スペイン、スウェーデン、ウルグアイの4チームが参加した。決勝リーグの最終節では2連勝のブラジルとウルグアイが対戦し、勝利したウルグアイが第1回以来、イタリアと並ぶ2度目の優勝を果たした。一方この最終戦で引き分け以上で優勝が決まっていたブラジルは逆転負けで優勝を逃し、敗戦の瞬間には試合会場のマラカナンスタジアム内でショック死と自殺で命を落とす人が続出し、後に「マラカナンの悲劇」と呼ばれた。ブラジル代表はその後、この敗戦のショックを払拭するため、それまでの白いユニフォームをカナリア色(黄色)に変えることとなった。

なお、結果的には最終節の試合が事実上の決勝戦になったとはいえ、現在に至るまで、トーナメント形式で決勝戦が行われなかった唯一の大会となっている。

会場一覧

結果

グループリーグ

※試合開始日時はすべて現地時間(UTC-3)。

グループ 1












グループ 2












グループ 3

  •  インドは出場辞退




グループ 4

  •  トルコと スコットランドは出場辞退


決勝リーグ

※試合開始日時はすべて現地時間(UTC-3)。












優勝国

得点ランキング

脚注

外部リンク

  • 1950 FIFA World Cup Brazil - FIFA.com(英語)
  • RSSSFによる記録

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 1950 FIFAワールドカップ by Wikipedia (Historical)



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