伊東 正義(いとう まさよし、1913年〈大正2年〉12月15日 - 1994年〈平成6年〉5月20日)は、日本の政治家。
衆議院議員(9期)、外務大臣(第109代)、内閣総理大臣臨時代理、副総理、内閣官房長官(第43代)、自由民主党政務調査会長(第32代)、自由民主党総務会長(第30代)を歴任した。
福島県会津若松市に生まれ、祖父の伊東健輔は会津藩士であった。父伊東秀三郎は旧制会津中学校(現福島県立会津高等学校)の一回生で、同校教諭である。旧制会津中学、旧制浦和高等学校(現埼玉大学)を経て、東京帝国大学法学部を卒業。農林省に入省する。農務局嘱託。その後、間もなく興亜院に出向する。伊東の興亜院時代の同僚に盟友の大平正芳や、後に通商産業大臣などを歴任する佐々木義武らがいた。
中国大陸から戦時中に帰国するが、空襲により焼け出され大平の自宅に仮寓する日々が続いた。農林省では河野一郎農林大臣を相手に丁々発止の議論を展開し、河野から「政治家向き」と評価されている。農地局長や水産庁長官を経て、1962年に農林事務次官を務めた後、退官。
政界入り
1963年、伊東は第30回衆議院議員総選挙に旧福島県第2区から自由民主党公認で立候補し、初当選を果たした。当選後は河野率いる河野派ではなく、無二の親友である大平が所属していた池田派(宏池会)に加わり、領袖の池田勇人から「君は池田派から出馬するというが、本当のところは大平派だな」と評された。当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・小宮山重四郎・田中六助・渡辺美智雄・佐藤孝行・藤尾正行・中川一郎・三原朝雄・鯨岡兵輔・西岡武夫・奥野誠亮などがいる。
大平内閣時代
大平が福田赳夫の後を受けて自由民主党総裁に就任したことを受け、伊東も党財務委員長に起用され第2次大平内閣では初入閣ながら首相の女房役たる内閣官房長官に就任し、大平首相を補佐した。
1980年、福田派や三木派の本会議欠席により大平内閣不信任決議案が可決され、ハプニング解散により衆参同日選挙が施行された。ところが、大平首相が5月30日に同日公示された第12回参議院議員通常選挙の遊説の後、不整脈により虎の門病院に入院した。大平首相の入院中は伊東が留守を預かり、6月12日に大平首相が急逝した後は事前指定に基づき内閣総理大臣臨時代理に就任し、即刻形式上内閣総辞職の手続きをとり、選挙後まで職務執行内閣を率いた(党務は西村英一副総裁が代行)。
ポスト大平をめぐっては伊東の名前も総裁候補に挙がり、加藤紘一や堀内光雄らの若手が総理後継の流れを作ろうとしたが、伊東が消極的であった上に、大平と同盟関係にあった田中角栄が大平派のナンバーツーである鈴木善幸を推した。鈴木は田中派に近かったものの、従来の反主流派要人も了承し、鈴木が後継の総理大臣となることが固まった。
鈴木内閣時代と外相辞任
鈴木善幸内閣では大平の戦時中からの盟友で、大平内閣の幕引き官房長官だった伊東を、大平後継の正統性を示す証として、固辞するのを押し切って外務大臣に任命した。1981年5月の日米首脳会談における共同声明の解釈を巡って、日米同盟は当然に軍事同盟の性格もあるとする伊東と、日米同盟は軍事同盟ではないとする鈴木首相のそれぞれの国会答弁が齟齬をきたす。また、鈴木首相と声明文を作成した外務省側が対立し、中川一郎科学技術庁長官、渡辺美智雄蔵相、鯨岡兵輔環境庁長官や小川平二宏池会座長から外務官僚が攻撃される。共同声明の文面は事前に官邸側もチェックしているはずなのにいまさら外務省を攻撃することは筋が通らないと思いつつも、伊東は官僚をかばって自分の責任であると閣僚懇談の席で陳謝するが、外交における先方への影響を勘案しこのやりとりを内密にするという了解があったにもかかわらずマスコミに漏洩したため態度を硬化させ、表向きは騒動の責任を取るという形で辞表を提出する。なお、「オレは糖尿病がひどいし、家内は病弱だ。無理だと断ったのに強引に外相にされた。とても目前に迫るフィレンツェのサミットに慣例通り夫婦でいける状態じゃないから、口実をみつけて辞めたまでさ」と本人が述べたと、伊東の死後に俵孝太郎は語っている。伊東の後任には、園田直厚生大臣が横滑りし、鈴木の路線に沿う外交政策を打ち出したが、のちの中曽根内閣では再び日米軍事同盟路線が確認された。
中曽根内閣時代
1986年、3選を果たした中曽根康弘総裁の下で伊東は自民党政調会長に就任し、政界の表舞台に復帰した。続く竹下登総裁の下で自民党総務会長に就任し、引き続き党三役の一角を占めた。
竹下内閣時代
しかし1989年、リクルート事件により竹下首相は退陣を余儀なくされ、ポスト竹下に党三役の一人であり、後継の首相の座に金権腐敗に縁のない伊東の名前も挙がったが、頑なに拒否した。その後、後藤田正晴に乞われ自民党政治改革本部長に就任した。自民党政治改革本部長に就任したが、自民党内の状況変化(東京佐川急便事件の影響を受けた竹下派分裂)や体調の悪化により1993年の第40回衆議院議員総選挙に立候補せず、政界から引退した。
政界引退後
1994年5月20日、伊東は自民党の政権復帰を見ることなく、肺炎のため東京都内の自宅で死去。80歳没。中野・宝仙寺で行われた葬儀では盟友の後藤田正晴が弔辞を読み、「あなたは政治家の中では珍しい愚直なまでの潔癖漢でもありました。こうした姿勢を貫きとおしたことに、私はすがすがしさ、美しさすら覚えます。党内にはそういうあなたを煙たがる空気もありましたが、この潔癖さこそが今の政治に最も大切なことだと思います。」と述べた。墓所は鎌倉霊園。
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