藤田 淑子(ふじた としこ、1950年〈昭和25年〉4月5日 - 2018年〈平成30年〉12月28日)は、日本の声優、女優、歌手。中華人民共和国遼寧省大連市出身。青二プロダクション最終所属。別芸名:藤田 とし子。
7人兄弟の一番下。父は電話技師で戦後9年間は中国で電話技術の指導者だったが、帰国後は日本電信電話公社に就職していた。小学1年生の時、芝居の仕事が好きで自分ではできなかった一番年上の姉が児童劇団の募集広告を見て、藤田に「やらせよう」ということで、父の反対を押し切って、内緒で児童劇団に申し込んだことがきっかけで芸能界に入る。人前で何かをやることが嫌いであり、体が虚弱で小児リウマチになっており、幼いころから鍼や湯治に行っていたが、芸能の仕事をしてからは元気になったという。小学校時代は成績はバツグンで4、5年生の時はオール5だったという。しかし中学校進学後、どんどん落ちてきてしまったという。芸能の仕事は子供の頃は遊びに行っているようなものだったことから楽しかったという。仕事という意識はあまりなかったが、子供心にも人物に代わってもらえないことから「休めない」という気持ちはあったという。
6歳の頃から子役としてラジオやテレビで活動をしており、女優、歌手、そして声優という幅広い芸歴を持つ。初めての声の仕事は、小学4年生の時の『ビル船長』。最初のアニメは中学生ぐらいの『トムとジェリー(TBS版)』のジェリー役。
精華学園女子高等学校(現・東海大学付属市原望洋高等学校)に進学した時、初めて自分の将来について真剣に考えて、「これまでは女優になろう」と思い、放送の仕事をしてきたわけではなく、姉に連れられて児童劇団に入団。なんとなく楽しいことばかりであり、「遊び半分に仕事を続けてきたにすぎない……」といい加減さに気がついたという。そこで改めて、「女優を自分の一生の仕事にしよう」と決意し、高校在学中には早野寿郎の私塾・面壁塾に通い芝居の基礎を学ぶ。1968年のテレビドラマ『夏のわかれ』出演は2010年『明日の光をつかめ』の広瀬アリスが更新するまで昼ドラ主演最年少記録であった。なお、歌謡曲歌手としての活動経験もある関係でアニメの主題歌などを歌うケースも多い。
子役時代から活動してきたために子役のイメージが抜けず、「じゃ、いっそ歌うたって、しばらく芸能活動のうち芝居はやめちゃったほうがいいんじゃないかな」と思って、7、8年くらいは、声の仕事を一切していなかったという。詩の朗読などの仕事はしていた。ポピュラー、ジャズと歌の世界で5年ほど仕事していた頃、長門裕之に出会って「役者の仕事に戻るのなら、今だよ」と声をかけてもらい、再び女優に専念することを決意。久しぶりの仕事が、1975年 、『一休さん』の一休役だったという。『アンデルセン物語』、『長靴をはいた猫』といった東映動画のアニメ映画作品に出演していたことから、同じスタッフで『一休さん』の話が来たため、「じゃあやりましょ」ということでワンクールくらいのつもりで引き受けたところ、7年間も続く長寿番組となったという。『一休さん』に出演していた7年間は、歌とテレビドラマをしていたため、アニメの仕事は1本するのが限度だった。『一休さん』が終わったらアメリカへ留学しようと思っていたが、前述のとおり番組が7年も続いたため行けなかったという。それまでは「早くやめたい、他に何か私に向いてる仕事があるだろう」と信じ込んでいたが、留学できなかった時には「もうこれしか残ってないな」と思ったという。『がんばれ元気』で初めて週に2本のアニメ出演を経験。その時は5歳から15歳までを演じられるところが、意欲をそそり、出演を決めた。当時はレギュラー1本主義の藤田としては珍しいケースだった。週1本なら、好きだった舞台の仕事もできたが、2、3本となれば身動きがとれなくなることがわかっているからだった。
1983年、青二プロダクションの『火の鳥』、劇団青杜の『テレスコープ』、劇団薔薇座の『ローマで起こった奇妙なできごと』、辻真先の『天使の殺人』の4本の舞台に多く出演していた。
芸歴は児童劇団の劇団こけし座に始まり、劇団俳小、人間プロ、渡辺プロダクションに所属していた。
1984年に第1回日本アニメ大賞の『声優部門 最優秀賞』を受賞している。
晩年は体調不良により持ち役を降板するなど活動を縮小していたが、散発的なナレーションは続け、2019年発売のゲーム『JUMP FORCE』にも『DRAGON QUEST -ダイの大冒険-』のダイ役で収録に参加していた。一方で『劇場版シティーハンター 〈新宿プライベート・アイズ〉』では来生泪の再演をオファーされていたものの、健康状態の悪化により参加できなかったため、代演した戸田恵子によると藤田は演じられないことを悔しがっていたという。2018年12月28日、浸潤性乳がんのため死去したことが、所属事務所の公式サイトにおいて公表された。68歳没。生涯独身だった。
声種はアルト。地声はF - C、ファルセットF - D、男の子キャラでF - BorB♭、他のキャラでF - C。
『キテレツ大百科』のキテレツ(木手英一)などの少年から、『キャッツ♥アイ』の来生泪のような大人の女性まで幅広く演じていた。初めて男の役を演じたのは10歳の時に出演していた『ララミー牧場』のマイク坊や役。その時は子供だったことから「男の子だよ」と言われた時、どんなふうに演じるのかよくわからなかったという。その頃、役作りの工夫は子供だったことからあまり考えていなかったという。『一休さん』の出演時は一休さんの成長に合わせて演技も少しずつ大人っぽく変化させていったという。『がんばれ元気』に取りかかるまで「レギュラーで男の子の作品は1本しかやらない」と決めていたという。洋画、アニメでも大人役を演じていたが、男の子役は7年間『一休さん』だけだった。とても不器用なため、同列統のキャラクターを演じていると、特に男の子はイメージが似てしまうという。アニメ出演の際は、同じようなキャラクターが同時期に被らないように常に心掛けていたという。『キテレツ大百科』の放送時期に演じていたのも、キテレツ(木手英一)とは違うタイプの男の子だったという。映画の吹き替えなどでは、大人の女性役を演じていたが、アニメでは『一休さん』が終了する頃から、大人の女性演じることが増えていったという。デビュー当初から「この仕事は向いていないかも……」と思い続けていたが、少しずつ面白さを実感できるようになった時期でもあったという。その一つの理由が、少年役に加えて、『キャッツ♥アイ』、『北斗の拳』といったアニメ、『アニー』など、歳相応の役を数多く演じるようになったことだと語る。同時に、怖さを感じるようになったのもこの頃でそれまで「役者になりたい!」という強い決意がないまま続けていた仕事だったが、声で表現する難しさを知り、それがやりがいであり、楽しさでもあることに気付いていたという。
海外映画・海外ドラマの吹き替えでは、ゴールディ・ホーンとスーザン・サランドンが持ち役であった。
東映アニメーションと日本アニメーションの作品に多く起用されていた。
『キテレツ大百科』のキテレツ(木手英一)は主要キャストの中では、唯一、藤田のみ1987年の特番から1996年の最終回まで変更がなかった。また5番目のED「メリーはただのともだち」の歌唱も担当している。
短期集中型であり、役作りを緻密に計算できるタイプではなかったという。
特技はゴルフ、水泳。
藤田の休業中ならびに没後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。
ただし、藤田に限らず、リメイクやリブートによって他の声優陣も大幅に一新した作品についてはこの趣旨から外れるため、この表に記載しない。
太字はメインキャラクター。
「藤田とし子」名義でCBS・ソニーから発売。当時は子供の頃から活動していたことから、周囲も見るイメージが変わらず、「じゃ、いっそしばらくやめちゃったほうがいいかな」といんで「5年間やめよう」と決心していた。前述のとおり、学校と仕事と塾を並行しており、番組の中で歌を歌ったことが多く、偶々歌った『ムーミン』のテーマソングが大好評になった。その時に歌手の話が来て、ほかに何もできることなかったが、「あ、歌は歌える」のような安易な気持ちで19歳で歌手デビュー。制作陣に藤田敏雄作詞・中村八大作曲(「もしもなれたら」)、小室等(「小舟にのって」他作詞・作曲・編曲)、山上路夫作詞・村井邦彦作曲・馬飼野俊一編曲(「しま馬は駈ける」)が参加、またカバー曲の多い「フランシーヌの場合」(いまいずみあきら作詞・郷伍郎作曲)をリリース。その多くはオムニバスアルバムに再録された。デビュー曲がフォークソングであり、シャンソン、ジャズを勉強して歌っていたが、続かなかったという。
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