モップス(The Mops)は、かつて存在した日本のグループ・サウンズ、ロックバンドである。日本のサイケデリック・ロックにおける草分け的存在として知られる。
1966年、埼玉県で星、三幸、村上、スズキ幹治の四人によりインストゥルメンタルバンド「チェックメイツ」として結成。そこへスズキ幹治の実兄である鈴木ヒロミツがヴォーカリストとして加わり、五人組バンドとして本格的な活動が開始された。アニマルズのエリック・バードンに心酔する鈴木ヒロミツの“黒っぽいロック“(ブルース・ロック)を指向する。バンド名の由来や理由に「(メンバーの)頭髪がモップみたいだった」、「人々の心を音楽でモップのように綺麗にしてあげたい」などと、鈴木ヒロミツは後年説明している。
都内のゴーゴー喫茶などで活動中にスカウトされ、1967年にホリプロと契約。同年11月、日本ビクターよりシングル「朝まで待てない/ブラインド・バード」でデビュー。いわゆるアイドル的人気のグループサウンズ(GS)とは異なり、主としてジャズ喫茶、米軍キャンプなどでの演奏で活動。
デビューに際しては「日本最初のサイケデリック・サウンド」を標榜したが、これは1967年夏、アメリカ旅行でサイケデリック・ムーヴメントを目の当たりにしたホリプロ社長・堀威夫の発案を、メンバーが受け入れてのものだった。統一したユニホームでジャズ喫茶、プールやデパート屋上で演奏したり、スーツ着用でナイトクラブでの営業をする機会が多かった当時のグループサウンズ中堅グループの中では異色異端で、アングラ(風俗)ヒッピーを意識した各人ばらばらの奇抜な衣装を着用。ドラムセットを客席に対して横向きにし、ステージには楽器を縦並びに置き目隠しをして演奏したりした。サイケデリック・パーティーの開催では報道陣を招きLSDパーティを挙行し、日本に輸入されて間もない装置を使ったライト・ショーなど、サイケのイメージを徹底して演出した。また、1968年4月には、現代音楽の一柳慧の公演に加わるなど、前衛芸術的な活動を繰り広げている。しかし1968年の暮れには日本でのサイケデリック・ムーヴメントも退潮を迎え、モップスも本来のシンプルなR&B、ロックンロール志向に回帰する。
1968年、アルバムの選曲において所属レコード会社のビクターから「アイドルのモンキーズのカバー曲をやれ」と言われたが、断固として「アニマルズやゼムをやりたい」と譲らず対立。日本ビクターと紛糾した事情はプロダクションの意向が大きく作用した。日本ビクターではモップス、ザ・ダイナマイツ、ザ・サニー・ファイブら所属プロダクションがそれぞれ異なる3組を同時デビューで送り出した。従来の大手レコード会社が歌謡曲で一枚のシングル盤を発売する際には演奏者、歌手、楽曲、作者という分業制が敷かれていた。分業から楽曲は専属か契約の作詞作曲家だけが曲を提供する不文律の協定が存在し、日本コロムビアではペンネーム弾厚作で自作曲を作り自分で演奏し発売した加山雄三が問題視され、新興企業で協定が曖昧な東芝音工に移籍を余儀なくされた。レコード会社ではグループサウンズなど自作曲を歌うアーティストの扱いにはこの協定が通用しない配給提携の海外レーベル・ブランド名を拝借してその傘下から発売し問題回避に努め、日本ビクターではザ・スパイダース、森山良子などをフィリップス・レコードから発売し、この日本ビクター・ブランドのダイナマイツ、サニー・ファイブ、オックスの場合、レーベルが契約する橋本淳ら作詞・作曲家の楽曲、洋楽カバー曲、グループの自作曲を混在させる協定妥協策に従う一方、モップスは加えて営業戦略や企画案をプロダクション主導で、作詞家はプロダクション側後押し外部から新人でオフィス・トゥー・ワンに所属する阿久悠を起用など、日本ビクター側の意向が通り難い存在だった。事務所の合併でホリプロ所属になったオックスは営業上の成果をあげ双方良好な折り合いをつけた。
こうした経緯からビクターから解雇され、東芝音楽工業に移籍した。1969年には、プロ活動の先行き不安を理由にベース担当の村上が脱退。メンバーの補充はせずに三幸の担当をそれまでのリズム・ギターからベース・ギターへ変えて四人のまま活動を続け、東芝傘下のエクスプレスから「眠り給えイエス」(1969)をリリース。1970年に入り日本のロック草創期、いわゆる「ニュー・ロック」のバンドの1つとして活動し、「御意見無用」(1971)、ヒット曲「月光仮面」(同)などを発表。
1972年には吉田拓郎が手がけた「たどりついたらいつも雨ふり」がラジオでさかんにオンエアされ、若者に支持された。また、星勝はグループ在籍中から編曲家・作曲家としても活動し、ザ・ピーナッツなどの良質な和製ポップスや、井上陽水らフォーク勢に楽曲を提供し、ヒットさせた。しかし歌謡曲とフォークブームに追いやられたロック音楽でのバンド活動の限界により、それぞれの活路を求めて1974年5月に解散。アルバム『EXIT』が同年7月に発売された。
その後、鈴木ヒロミツは俳優やタレントとして活動。星勝は前述に加えテレビ番組などの音楽を担当。1974年10月放映のドラマ『夜明けの刑事』では鈴木ヒロミツが出演者、星勝は音楽担当として「再会」している。鈴木幹治はモップス解散直後から、愛奴とソロ活動に移行した浜田省吾を支えた。三幸太郎は一時期井上陽水のバックバンドに参加(「東京ワシントンクラブ」に当時の音源が収録)したのちマネージメント業に転じて活動していたが2011年頃から音楽活動を再開し、三幸太朗Badboys&girlsとして演奏活動を行っている。
1980年代以降、サイケデリック期の楽曲については、欧米のガレージ・ロックファンから評価されるようになった。「ブラインド・バード」などの楽曲は複数の海賊盤コンピレーションに収録され、アメリカでは1stアルバム「サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン」が何百ドルというプレミアつきで販売されていたという(1994年当時)。
ヒット曲「月光仮面」は、元々ジャズ喫茶のライヴで演奏するレパートリーのひとつだった。1969年にはブルース(実際はブルース・ロック)が流行し、ゴールデン・カップスなども取り上げていたが一般には新奇で、ジョン・メイオールのカバー演奏などを元々得意にしていたモップスが、耳馴染みの無い観客へ「ブルース」を説明するため「月光仮面」をモチーフにアレンジしたのが始まり。やがてリクエストに応え「月光仮面」をタンゴ風、ロックン・ロール風・・・、と演奏するうち、星勝がリード・ヴォーカルを取り鈴木ヒロミツがMCを挟むコミカルなブルース・ロック的作風が評判になりレコード化される。グループサウンズ(GS)ブーム後期で、欧米ロックを追求したモップスは、鈴木ヒロミツと星勝の個性に負う部分が大きく、アルバム『サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン』は、事務所社長・堀威夫の意表作為を超えていた。その後も阿波踊りを取り入れたハード・ロック・チューン「御意見無用」等、高い音楽性を誇ったが、一方「月光仮面」はバンドの知名度を高めつつも、コミックバンドのイメージが付き纏う結果となった。
世界的なガレージロック・コンピレーションアルバム「Nuggets」シリーズの「ナゲッツII:オリジナル・アーティファクツ・フロム・ザ・ブリティッシュ・エンパイア・アンド・ビヨンド、1964-1969[Disc4]」の5曲目に、ザ・モップスの「アイ・アム・ジャスト・ア・モップス」が収録されている。 モップスは、後年国内ではグループ・サウンズ、海外からはサイケデリック・ロック、ガレージ・ロックの分野から再評価された。しかし、70年代初期において「日本のロック・バンド」として重要な存在だったという点は、歴史上現在も見過されたまま経過している。
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