旧皇族(きゅうこうぞく)とは、皇族を離れた者およびその男系子孫。特に、日本国憲法・現行皇室典範施行後の1947年(昭和22年)10月14日に臣籍降下(皇籍離脱)した11宮家51名およびその男系子孫を指すことが多く、本項目ではこれらの人物及びその家について解説する。近代以前からの世襲親王家としての宮家の歴史も考慮して『旧宮家』と呼称されることも多い。
該当の11宮家は、崇光天皇の皇子栄仁親王を祖とする世襲親王家・四親王家の一つである伏見宮とその分家である。大正初期以後の皇族は、大正天皇の直系の皇族以外は全て伏見宮とその分家であったことから、「伏見宮系皇族」とも通称される。
これらの宮家は、1889年(明治22年)2月11日に制定された皇室典範(いわゆる旧皇室典範)で臣籍降下の規定が無くなって以降(永世皇族制)、邦家親王の皇子を中心に、数多くの宮家が創設されたことで形成された。その後は1907年(明治40年)の皇室典範増補で臣籍降下が容認され、1920年(大正9年)制定の内規で、臣籍降下がさらに推進されるなどして増加が抑制され、1947年時点では11宮家が存在していた。明治、大正、昭和前期にかけ、宮廷文化の一端を担い、また皇族軍人や名代としての慰問を通じて臣民と身近に接した。
1947年(昭和22年)5月の日本国憲法・皇室典範(現行)施行後、同年10月14日、これらの11宮家51名が臣籍降下した。以降、これらの旧宮家の構成員は、法的には一民間人であるが、皇室のかつての成員、親戚であることから、菊栄親睦会を通じて現皇室との交流を保っている。また、いわゆる「お妃候補」としてマスコミに取り上げられるほか、特に男性は皇位継承権(男系男子)を潜在的に保有しているとされることから、皇位継承問題に関して、皇籍復帰の可能性が議論されている。これらの人々を指し「元皇族」、その家を指し「旧宮家」ともいう。
この臣籍降下以降「皇籍離脱」の語が用いられる(臣籍降下の項を参照)。「旧皇族」とは、この皇籍離脱者の子孫も含めた総称で用いられることもある。
室町時代、称光天皇が崩御し、近親の皇族が不在になった時、傍系の伏見宮家から後花園天皇が皇位を継承する(実際には北朝の嫡流は伏見宮であった)。この時、天皇は伏見宮家を永代宮家とし、今後、時の天皇の近親者で皇位継承者が不在となった時には伏見宮家が皇位を継承するよう命じた。
その後、江戸時代前期にかけて、皇位継承権者を更に確保する目的で、桂宮・有栖川宮・閑院宮の3宮家が立てられ、伏見宮家と合わせて4つの世襲親王家が成立。皇位を継承する皇統とあわせて5本の血統(いずれも男系)が、互いの継承者を融通しつつ存続した。これらの宮号の継承者は時々の天皇の名目上の養子(猶子)として親王に任ぜられ、実際に皇位を継承したものもいる。
これらの皇位および宮号を継ぐ者以外は、その多くはゆかりの門跡寺院に入寺得度して子孫を残さないか(門跡寺院制度、宮門跡)、一部は臣下(公家)の養子として臣籍降下した。
歴代当主はその時々の天皇の名目上の養子(猶子)として親王に任ぜられ、皇位継承権を有した。江戸中期から幕末にかけて、実際に天皇の候補とされた当主も2人いた。
また、宮家に当主不在の時は天皇の皇子(貞行親王)が伏見宮家に入ったり、天皇の皇女(福子内親王、秋子内親王)が伏見宮家に降嫁している。
幕末の宮廷においても伏見宮は伏見殿と呼ばれ代々の天皇家の出身宮家として天皇と同様な存在とみなされていたという。
幕末には伏見宮出身の朝彦親王が、孝明天皇の信頼を得てその治世を補佐したほか、戊辰戦争においては同じく伏見宮出身の輪王寺宮公現法親王が上野戦争時に幕府方の旗印として寛永寺に立てこもりその後、奥羽越列藩同盟の盟主として「東武皇帝」として即位していたという説もある。
明治維新と前後して、伏見宮家の第19代貞敬親王および第20代・第23代邦家親王の王子が還俗して、新たな宮号を下賜され、あるいは継嗣のいない宮家を相続した。ただし、この時期に新立した宮家に関しては1代限りとして、2代目からは臣籍降下させて華族に列することとし、世襲は想定されていなかった。しかし、明治天皇の男子で成長したのが嘉仁親王(のちの大正天皇)だけであったことから、安定的な皇位継承を果たすべく、明治天皇自身の意向もあり新規にたてられた宮家が存続されることになった。また明治天皇は自身の四皇女を北白川宮、竹田宮、朝香宮、東久邇宮に嫁がせて血縁関係をより強固なものとした。明治新政府自体は財政面の問題からも皇族数を抑制する方針を打ち出していたが、これらの新宮家の創設は明治天皇の強い意向の下、将来の皇位継承を安定ならしめるために行われた。 この後、四宮家(世襲親王家)のうち閑院宮家、桂宮家、有栖川宮家が相次いで断絶、対して伏見宮系統の宮家からは分家による新宮家の創設が相次いだことにより、皇室に残った血統が、明治天皇の直系のそれと、伏見宮邦家親王の子孫のそれとの二本になったことから、特に後者に属する皇族を指して「伏見宮系」と称されるようになった。
その後、大正天皇は無事に成人、四人の男子に恵まれ、明治天皇の直系による皇位継承の目途がひとまずついたことから、伏見宮系の宮家の増加に抑制が加えられ、傍系の男性皇族の臣籍降下が行われていた。
近代の皇族には王政復古の影響やヨーロッパの王侯貴族に倣い男性皇族には軍務に就いて国家に貢献することが義務付けられていた(「皇族身位令」)。 宮家の長男以外の男性皇族は一般臣民と同じく危険な戦場に送られた者達もおり、伏見博英、音羽正彦は大東亜戦争従軍中に戦死している。 また、伏見宮博恭王は日露戦争の時に軍艦三笠の分隊長として戦闘に加わり、大東亜戦争では竹田宮恒徳王は関東軍参謀として中国大陸に、閑院宮春仁王は戦車第五連隊長として満州牡丹江に出征している。
1945年の終戦時には、昭和天皇の求めにより、皇族一同が平和達成の目的のため協力、各地の戦地に派遣されて天皇の意思を伝え、日本軍降伏の任にあたった。
昭和20年(1945年)8月16日には昭和天皇の命を受けて東久邇宮稔彦王が内閣総理大臣として組閣(東久邇宮内閣)し敗戦後の事態収拾にあたった。
また12月には天皇の意を受けて歴代天皇陵に各皇族が分担して終戦の報告、代拝を行った。同月には梨本宮守正王が連合国から戦犯指定を受けて巣鴨拘置所に収監された(1947年3月に釈放)。梨本宮の戦犯指定は天皇にも戦争責任が及ぶのではないかという危惧を日本国民に与え、当時の日本社会に大ショックをもたらしたという。本人も天皇の名代であると認識していた。 いずれも敗戦という国難に旧皇族が天皇の名代として「ノブレス・オブリージュ」の責務を果たしたと評価される。
連合国の占領政策により天皇にもしものことがあった場合に備えて陸軍中野学校出身者によって北白川宮道久王を新潟県某所に匿う皇統護持作戦も計画されていた。
これらの宮家の全員が臣籍降下(皇籍離脱)することになった直接的な契機は、1945年(昭和20年)の敗戦である。敗戦直後に短期間首相をつとめた東久邇宮稔彦王は、辞任した直後に敗戦の道義的責任として自らの臣籍降下を昭和天皇に願い出ており、さらにそのことをマスコミにも語り、他の皇族も自分にならうことを求めたために、宮内省があわてて否定の声明を出した。また、賀陽宮恒憲王も天皇に同様の申し入れをしている。
より直接的な原因は、GHQの指令により皇室財産が国庫に帰属させられることになり、従来の規模の皇室を維持できなくなったことである。皇室の活動にかかる予算は基本的に政府の一般会計から支出されていたが、その額は明治43年度(1910年度)に450万円で固定され、昭和22年まで変更されなかった。その間、財政規模の拡大にともなう差額は山林・有価証券・農地などの皇室独自の財源からまかなわれており、終戦前後の皇室の財政規模は約2500万円と、予算の大部分を占めるまでになっていた。これらの独自の財源が国庫に帰属したことにより、皇室はその活動費の大半を失ったのである。さらに戦争とはほとんど関りがなかった梨本宮が戦争犯罪人に指定されて逮捕されると、天皇本人が戦争犯罪人指定されることに危機感を強めた宮内府官僚らは重臣らの反対があったものの天皇を守るためとして十一宮家の皇籍離脱、臣籍降下の計画を進めた。
この時点で、宮家は昭和天皇の弟宮である秩父・高松・三笠の3宮家(直宮家)と、伏見宮系統の11宮家があった。直宮は残すとして、その他にも、香淳皇后の実家である久邇宮家や、昭和天皇の第一皇女成子内親王の婚家である東久邇宮家などの一部の宮家に関しては皇室に残す案も重臣からは出た。しかし最終的には、伏見宮系の11宮家は全て皇籍離脱させることになった。
1947年(昭和22年)1月16日、皇室典範(現行)が公布、同年5月3日、日本国憲法と同日に施行された。そして、同年10月14日、皇室典範の規定に基づいて11宮家51名の皇籍離脱が行われた。これは、
及び
によって、形式上、離脱する皇族それぞれの自発的な意思によるものとして行なわれた。
旧皇族たちは10月18日に宮中三殿を拝礼し、その後、昭和天皇・香淳皇后・貞明皇后への朝見の儀とお別れの夕食会が行われた。
「旧皇族」の人々は、皇籍離脱後は、それぞれ宮号から「宮」の字を除いたものを名字として名乗り、民間人としての生活を始めた。旧皇族は世間の注目を避けて静かに生活してきた者がほとんどだった。1950年(昭和25年)には、久邇通子、伏見章子、北白川肇子の3名が光文社の少女誌『少女』1月号中「元女王さまの座談会」で質素な近況を話している。
財産税の賦課を受けてほとんどの者が資産の多くを失い、経済的な困窮に苦しんだ者もいる。臣籍降下から10年余りが経過した1958年(昭和33年)時点では、瓜生順良宮内庁次長は国会で、旧皇族は宮内庁が特別の世話をする対象ではないとした上で「相談相手になるということもございます」「元皇族の方で相当経済的にもお困りの方もあるようでございます」と答弁しており、宮内庁側も認知していたことを明らかにしている。
一方、自らの努力やその人脈・婚姻により社会的・経済的に高い地位を維持する者(家)もある。
神道関係者では、北白川房子(明治天皇第七皇女)は女性初の神宮祭主に就任し、以後、神宮祭主は皇籍を離れた皇女が務めることが慣例となった。また、伊勢神宮大宮司には久邇邦昭や北白川道久が就任している。
竹田恒治のように外交官として公的な要職に就いた者もいる。さらに旧皇族の子孫として、竹田恒和はオリンピック選手(のちJOC会長)として、その息子竹田恒泰は著作や講演・テレビ出演等により、積極的に活動をしている者もいる(詳細は後述→#著名な活動がある旧皇族(戦後))。
一方、久邇朝融(香淳皇后の兄)は1947年(昭和22年)に時事新報による皇后の単独会見記事の捏造に関与し、皇后が自ら取材を否定する事態となった。また元首相の東久邇稔彦は住居地を巡って、1962年(昭和37年)6月27日に政府を相手に所有権確認の訴訟を行い、このことは国会でも取り上げられた。
1952年(昭和27年)に明仁親王(当時、のち第125代天皇、現上皇)が立太子を迎えて以降、1950年代には旧皇族の複数の少女たちが「お妃候補」であるとしてマスコミ取材を受けた。
うち北白川肇子は最有力者として、特に世間の注目を受けている(本人の項目を参照)。東宮侍従だった黒木従達によれば、実際に先例及び旧皇室典範に倣い、旧皇族(11宮家)及び五摂家から「お妃候補」を選定しようとしたが、血縁の近さや、遺伝性の病気の有無等がネックになり、結局誰も候補者が残らなかった。また黒木は、有力な候補者だった「元皇族令嬢」は近縁であることを理由に、早期に候補者から外していたとしている。
昭和末期、浩宮徳仁親王(当時、現今上天皇)が成年を迎えた1980年代以降も、旧皇族の末裔にあたる女性たちが「お妃候補」として名指しで報じられていた。
皇籍を離脱した後も「皇室の親戚」という立場には変わりがなく(後述)、宮中祭祀や宮中行事に各家の当主が出席するなど、天皇や皇族と同席する場面が多々ある。また、北白川祥子や賀陽正憲など、宮内庁に勤務して時の天皇に仕えた者もいる。
公的な行事以外にも、私的な付き合いは続いており、現皇族・旧皇族をメンバーとして結成された親睦団体の菊栄親睦会を介して、皇室の慶事などで交流する機会をもっている。 特に東久邇家は、昭和天皇の第一皇女照宮成子内親王の婚家であったことから交流が深かった。
久邇朝融(香淳皇后の兄)や、東久邇成子・東久邇盛厚夫妻の比翼塚など、一部の旧皇族は豊島岡墓地に葬られている。
天皇の男系子孫であると同時に、女系で現在の皇室と近しい或いは非常に近しい親族関係にある。
令和2年(2020年)2月19日には衆議院予算委員会で日本維新の会の藤田文武が旧宮家と現皇室の親戚関係について質問し、宮内庁次長の池田憲治は
「上皇陛下と久邇宮家との関係については、上皇陛下のお母様であり、大正十三年に昭和天皇とご結婚された香淳皇后が久邇宮邦彦王のお子様でありまして、上皇陛下と邦彦王のお孫様である久邇邦昭様とはいとこの関係にございます。また、上皇陛下と東久邇宮家との関係についてお尋ねがございましたが、上皇陛下のお姉さまである成子内親王は、昭和十八年に東久邇宮盛厚王とご結婚されています。そのお子様である東久邇信彦様は天皇陛下のいとこに当たられます。また、明治天皇と竹田宮家との関係でございますけれども、明治天皇のお子様である昌子内親王は明治四十一年に竹田宮恒久王とご結婚をされております。また東久邇宮家につきましては、明治天皇のお子様であります聰子内親王が、大正四年に東久邇宮稔彦王とご結婚をされております。」
と現皇室と旧宮家に親戚関係があり現在でも親睦会等を通じて定期的に交流があることを認めている。
1965年(昭和40年)の秋篠宮文仁親王の誕生以来、2006年(平成18年)の悠仁親王の誕生までの41年間、男子の誕生がなかった。一方、現行の皇室典範の規定では、男系の男子しか皇位を継承することができないため、近い将来に皇位継承資格者が存在しなくなる皇位継承問題が予想されている。この問題へのひとつの対処として、旧皇族から男系男子を補充して皇族の数を維持しようという案が提示されている。昭和22年10月14日に皇籍離脱した旧皇族については現行皇室典範の下での皇位継承者であったが、その実現には特別法の制定あるいは法改正が必要である。具体的な方法については、①旧皇族男性を現在の皇族の養子とする。②旧皇族中の男系男子を未婚の皇族女子と結婚させる。③旧皇族を法律により直接皇族とする。などの案が提示されている。
小泉純一郎首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」は旧皇族男性を養子にする案については「当事者の意思により継承順位が左右され、一義性に欠ける」として否定的見解が出された。立場上の問題から、旧皇族が積極的に皇位継承問題に関する意見を表明することはなく、メディアからの質問に対しては、無回答で返すのが常になっている。
ただし近代以前の朝廷では、皇籍復帰例が複数ある(臣籍降下#皇籍復帰)。直近最後の例は清棲家教であり、旧皇族と同じく伏見宮邦家親王の子である。幼少期に臣籍降下し澁谷家教となっていたが、1888年(明治21年) 6月28日に伏見宮家に復帰し、同日付で清棲家教伯爵となった。旧皇室典範では、離脱も復帰も定義されていなかったが、先述の通り1907年(明治40年)の皇室典範増補によって皇籍復帰は禁じられた。現行の皇室典範でも、第11~14条で離脱は定義されているが、復帰は規定されていない(第15条により「皇族以外の者」は婚姻の他、皇族となることができない)。
令和3年(2021年)、菅義偉内閣の下で『「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議』が開催され、全13回の会議の後、報告書が作成され岸田文雄内閣に提出された。この有識者会議の開催により2004年(平成16年)の小泉内閣時代に行われた「皇室典範に関する有識者会議」における皇位継承の議論の内容は全面的に更新され、①内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する、②皇族には認められていない養子縁組を可能とし、皇統に属する男系の男子を皇族とする、③皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とすること、の3案が政府案として決定されている。
*なお、旧皇族が臣籍降下前に公布された現行皇室典範第二条二項の「最近親の系統の皇族」とは旧皇族のことを指しており、法的経緯を踏まえると、旧宮家の男性を皇位継承の「特別な有資格者」とみなすことができるという見解もある。
※令和5年11月15日、内閣法制局は衆院内閣委員会で、皇統に属する男系男子を皇族とするのは、門地(家柄)による差別を禁じた憲法14条に抵触しないとの見解を示した。安定的な皇位継承策を巡り浮上する皇族の養子縁組を認め、旧皇族男系男子が皇族復帰する案に関し「憲法14条の例外として認められた皇族という特殊な地位の取得で、問題は生じないと考えている」と答弁した。
皇室典範増補による臣籍降下の規定のうち、当てはまる皇族が準則の廃止まで一人も存在しなかったため、「皇玄孫の系統四世(5~8世)以内の長子孫以外」の降下の例はない。
上記出典
すべて都心6区に所在している。京都に別邸もある。
なお、プリンスホテルの社名は、ホテルの建物が旧皇族の手放した土地に立地していることに由来している。
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