東京箱根間往復大学駅伝競走(とうきょうはこねかんおうふくだいがくえきでんきょうそう)は、1920年に開始された、毎年1月2日と1月3日の2日間で開催する関東地方の大学駅伝競技会(地方大会)である。関東学生陸上競技連盟(以下「関東学連」という。)が主催し読売新聞社が共催する。箱根駅伝(はこねえきでん)とも俗称され広く知られる。実施は関東学連が定める「東京箱根間往復大学駅伝競走に関する内規」(以下「内規」という。)に定める。
現在開催されている駅伝の中で4番目に長い 距離を持ち、1987年からテレビ中継を開始した。
「箱根駅伝」は読売新聞東京本社の登録商標(登録番号: 第5565518号)である。
出場校は20校で、これとは別に出場校以外の競技者による関東学生連合チーム(オープン参加)が参加する(2015年の第91回大会以降の編成)。2019年の第95回記念大会では「関東インカレ」成績枠が設けられた が、同回のみで廃止された。
コースは国道1号線、東京都千代田区大手町・読売新聞東京本社ビル前 から、鶴見、戸塚、平塚、小田原の各中継所を経て神奈川県足柄下郡箱根町・芦ノ湖までの往復で、往路107.5km、復路109.6km、計217.1km。1月2日に東京から箱根への往路を、1月3日に箱根から東京への復路を走る。主に通過する路線名称は日比谷通り、国道15号、国道1号、国道134号などである。
第1回大会は1920年2月14日に行われた。これは、アメリカ大陸の継走での横断を実施するための予選会という位置付けで、1912年のストックホルムオリンピックに出場した日本人五輪選手第1号で1917年に実施された日本初の駅伝競走「東海道駅伝徒歩競走」でアンカーを務めている金栗四三が、「五輪で日本を強くするには、長距離、マラソン選手を育成すること」と発案したことがきっかけである。別の説として、駅伝の由来である宿駅伝馬制の飛脚をもとに、手紙に見立てた襷を、東京から東海道の宿駅があった鶴見(川崎宿)、戸塚(戸塚宿)、平塚(平塚宿)、小田原(小田原宿)で引継ぎ、箱根町郵便局(箱根関所)まで、どの大学が一番早く届けて、東京に帰ってくるかという大学対抗戦のイベントとして開催されたという説もある。第1回から第12回のゴール地点は箱根関所跡で、第13回から第44回までは箱根町郵便局がゴール地点であった(第22回を除く)。第二次世界大戦中の1941年から一時中断されたが、1943年に一度だけ戦時下で開催された(靖国神社・箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会)。その後、再び中止となり、戦後の1947年に復活。第32回(1956年)から現在の1月2・3日の開催となった(内規第1条)。
箱根駅伝は、関東地方では従前から人気があったが、警察から駅伝自体の中止を含めた内容変更を迫られるなど、存続の危機に立たされていた。しかし、1987年に日本テレビが全国放送で全区間の生中継(電波を途切れさせない完全中継実施は1989年から)を開始して以降、正月の風物詩(国民的スポーツ大会)として関東地方以外でも知名度・注目度が格段に向上した(詳細は#中継番組を参照)。箱根駅伝出場者からオリンピックや世界陸上などに出場を果たした選手も少なくない(詳細は箱根駅伝の人物一覧を参照)。
箱根駅伝は、関東学連が主催する地方大会であり、10位以内に入ると、同年の出雲全日本大学選抜駅伝競走(同年スポーツの日開催。以下「出雲駅伝」という)に関東代表として出場できる。一般に、出雲駅伝、全日本大学駅伝、そして本大会を併せて「大学三大駅伝」と呼ばれており、同じ年度の全大会に優勝すると「三冠」と称され、大東文化大学(1990年度)、順天堂大学(2000年度)、早稲田大学(2010年度)、青山学院大学(2016年度)、駒澤大学(2022年度)の5校が達成している。ただし、箱根駅伝は全国大会ではないため、関東学連加盟校以外の大学は三冠を達成することはない。大東文化大学は復路優勝を、順天堂大学と早稲田大学は往路優勝を逃しており、箱根駅伝を完全優勝しての三冠を達成した大学は2016年度の青山学院大学と2022年度の駒澤大学の2校である。
関東学連加盟校のうち、前年大会でシード権(後述)を獲得した大学10校と予選会を通過した大学10校の計20校と、このほかに関東学生連合チームを加えた21チームが出場する(2015年の第91回大会以降の編成)。第95回(2019年)記念大会では、関東インカレ5年間の総合得点の累計が最も多い大学に出場権を与える関東インカレ成績枠が設けられる とともに予選会からの出場校が11校となり、計23チームが出場した。
競技者は次の参加資格を満たしている必要がある。
上記の参加資格の例外として、怪我によるエントリー漏れや年度途中での休学などに伴って留年し、「実質5年生」になった4年生ランナーが4回までとなっている参加資格の上限に到達していないことを理由に出場するケースも散見される。この場合には2通りのパターンがある。
第68回(1992年)までは28歳以下という年齢制限があったが、第69回(1993年)から撤廃されている。
申込み(チームエントリー、区間エントリー)は関東連盟が提示する日時と場所で所定の様式によって行われ、資格審査委員会の審査によって参加資格ありと認められた大学・競技者のみ正式出場が認められる(内規第8条)。
チームエントリーは16名以内で、区間エントリーのチーム編成は正選手10名と補欠選手6名以内である(内規第9条)。ただし、留学生については、エントリー2名以内、出走1名以内に制限されている(内規第9条)。現行の16人エントリーになったのは第79回(2003年)からである。第82回(2006年)までは区間エントリーの際にメンバーを16人から14人に減らす必要があったが、第83回(2007年)より区間エントリーでも16人のまま登録することができるようになった。したがって、補欠選手はそれまでの4人から6人に増えた。
区間エントリーは1区から10区までにエントリーされた正選手とその他の補欠選手とに大別される。そして、正選手には主催者側が用意したナンバーカードが配布される。ナンバーは1区から順に1、2…となり、補欠選手は11番から16番までとなる。ナンバーカードの記載は「(前年の順位・予選会の順位に従い大学に割り振られた番号)-(1番 - 16番)」となり、例えば前年3位の大学の6区にエントリーされた選手は「3-6」となる(第80回より。それ以前は大学ごとの番号は付されなかった)。
変更は正選手と補欠選手との入れ替えのみで、1日に変更できる選手は4名までとされている。区間変更は認められていない(内規第10条2項)。つまり、補欠選手は当日のエントリー変更で正選手と入れ替えとしてどの区間にも入ることができるが、既に区間ごとに配置されている正選手はその区間しか走ることができない(例えば2区に補欠から選手を入れることはできるが、2区と4区の走者を変えることはできない)。通常の駅伝では補欠選手との交代には医師による診断書の提出が義務付けられているが、この大会は長時間の移動への配慮からその必要がないため、戦略的に補欠との選手交代が行われるケースが数多くあり、補欠選手は言わばジョーカー的な意味合いを持つ。逆に区間エントリーで補欠選手と交替した選手は走ることができないため、当て馬的な要素もある。2区にチームで最も力のある選手を置くのが通常であるが、選手層の厚い大学では「つなぎの区間」にエースを配置し、他大学の虚を突くこともある。
全区間が20km超の長距離を考慮し、体調不良など万が一の状況に備えて選手の交替が認められている点が他の主要駅伝とは大きく違う点である。
先述したように箱根駅伝には関東学連加盟校のうち、前年大会でシード権を獲得した大学10校と予選会を通過した大学10校の計20校と、このほかに関東学生連合チームを加えた21チームが出場する(2015年の第91回大会以降の編成)。
本競技会で10位までに入った大学は「シード校」として次回の本競技会出場権を取得する(内規第13条1項)。つまり、前回の本競技会で総合10位以内に入賞していれば本競技会出場権を取得し予選会出場義務は免除される(シード権、予選免除権)。ただしシード権を確保した大学に重大不祥事が発覚した場合、シード権が剥奪される場合がある。実際に、日本体育大学は2009年4月に大麻で陸上競技部員が退学処分となったため、2010年大会のシード権が取り消されている。
前回大会でシード権を逃した大学と次の大会の予選会で本選出場権を獲得した大学がすべて一致することもあるが、過去に予選枠が6校だった第56回 - 第57回、第61回 - 第62回、第63回 - 第64回と、予選枠が9校だった第82回 - 第83回と、予選枠が10校になった第94回 - 第95回の計5回しか起きていない。
シード校の参加は希望制(日本国内での各学連主催の駅伝大会共通)であるが、不参加チームはいまだ発生していない(出雲駅伝では発生例があった)。
第95回記念大会において関東インカレ成績枠の該当校がシード権を獲得しており出場権を確保している場合には繰り上げは行われないこととされていた。
第83回から第90回までは関東学連選抜チームが10位以内に入った場合は、シード校は9校となり次回の予選会では10校を選抜するとされていたが(この場合は次年度の出雲全日本大学選抜駅伝競走への推薦校も9校となる)、2014年2月の関東学連代表委員総会において「関東学連選抜チーム」から「関東学生連合チーム」に名称変更されるとともにオープン参加となっている。
箱根駅伝の予選会は本競技会の2か月以上前に行われ、別に開催要項が定められている(内規第14条1項)。予選会は陸上自衛隊立川駐屯地内の滑走路を周回し、立川市の市街地を通過して、昭和記念公園内をゴールとするハーフマラソン(21.0975 km) のコースを各校10名以上12名以下の走者が走って行われる。
前年の1月1日から予選会申込期日前日までの公認記録で、10000m34分00秒00以内の記録(トラック記録に限る)を有する選手のみに出場資格があるため、この出場資格を有する者を補欠も含めて10人以上揃えなければならない。以前はこのような出場資格はなかったが、参加校の増加で予選会の段階である程度出場校を絞り込む必要が出てきたことから、このような資格が設けられた。
予選会では各校上位10名の合計タイムにより10校を選出する。
予選会での順位を決定する際の記録の扱いは、下記の通りとなっている。
箱根駅伝では第23回(1947年)から予選会が実施されている。
当初は関東学生10マイル(約16.1kmコース)の成績を選考材料にしていたが、予選会のコース・距離及び選考方法は、次第に変遷を重ね、第81回からは陸上自衛隊立川駐屯地→立川市街地→国営昭和記念公園のコースで開催されている。第97回および第98回の予選会は、新型コロナウイルス感染症対策として立川駐屯地内の滑走路を周回するコースに変更された。第95回からは、距離が従来の20㎞からハーフマラソン(21.0975km)に延長されている。
当初は参加校全校が予選会に参加し上位15校が本戦出場する規定となっていたが、第32回(1956年)まではいずれも参加校が15校以下であり予選参加の全校が本戦出場していた。第33回(1957年)からは規定が変更となり、前回大会の総合成績上位10校にシード権を与え、予選会からの本戦出場は予選上位5校のみとなり、これ以降は予選会で敗退校が出るようになった。第48回(1972年)からは予選会からの出場枠が6校となり、第79回(2003年)以降は予選会上位9校が出場となっている。
第79回から第89回まではインカレポイント制が導入されていた。これは予選会上位6校を合計タイムにより選出し、残る3校はその年の関東インカレの成績に基づくポイント制との併用により選出するものである。7位以下の順位は関東学生陸上競技対校選手権大会の成績に基づくポイント(インカレポイント)による減算タイムを併用して最終順位を決定していた。インカレポイントは、大学の陸上部全体の成績が反映されるため、駅伝だけではなく陸上競技部全体としての取組が成績に影響する。本戦がテレビメディアに大きく扱われるようになって以後は予選会の突破に僅差のタイムが頻発し、特に第83回予選会では、本戦出場を果たした9位の国士舘大学と、予選落ちとなった10位の拓殖大学のタイム差は、インカレポイントを含めて1秒だった。
前年大会でシード権を獲得した大学10校と予選会を通過した大学10校の計20校のほかに関東学生連合チームが出場する(2015年の第91回大会以降の編成)。2014年2月の関東学連代表委員総会において「関東学連選抜チーム」から「関東学生連合チーム」に名称が変更された。
第79回(2003年)から関東学連選抜チームの参加が認められることとなり、第82回(2006年)までオープン参加として個人記録のみが認められていた。
5年ごとの記念大会は日本学連選抜チームが関東学連選抜チームに代わって参加することが認められている(内規第12条)。最近では第80回(2004年)で特別に日本学連選抜チーム がオープン参加で出場した。
第79回(2003年)から参加が認められるようになった関東学連選抜チームのメンバーは、予選会で落選したチームに所属する選手のうち個人成績で上位に位置する選手から、各校最大2名までの枠内で選抜される。第80回(2004年)では日本学連選抜としての参加だったこともあり、6位相当の成績を収めたが、通常の関東学連選抜の場合には下位に低迷することが多かった。もっとも、日本学連選抜チームとしての出場の機会しかない関東以外の各地区の学生が最初から選抜チームのメンバー入りを目指し練習してきたのに対し、関東学連選抜チームの場合、所属大学の一員として箱根駅伝に出たいと言う気持ちがあるのは普通のことであり、予選会で落選したショックからわずか2か月後の本番に選抜チームとして招集されたとしてもモチベーションが上げにくいことも事実である。大学ごとの真剣勝負の場に趣の異なるチームが混じることへの違和感も根強い。このような意見もある一方、選抜チームの経験をチームに持って帰り次回へのモチベーションとすることは大いに意義のあることであり、参加選手からは「この経験を母校に持ち帰り来年に生かす」との声も聞かれ、後年予選会を勝ち抜き本選出場を果たした大学も多い。
第83回(2007年)からはチームとして正式にタイムおよび順位が記録されることになり、関東学連選抜チームが10位以内に入った場合は、シード校は9校となり次回の予選会では10校を選出することとなり、この場合は次年度の出雲駅伝への推薦校も9校とされた。これにより全体のレベル拮抗が予選会参加校のレベル向上へと結びつき、第84回(2008年)では関東学連選抜が総合4位という好成績を収め、続く第85回(2009年)も総合9位となり、2大会連続してシード圏内入りを果たした。予選会出場枠が1枠増えることにより自身の所属大学の翌年の箱根出場の可能性がわずかながらも広がることから、関東学連選抜の存在価値が増し、そのレース順位が大きな意味を持つようになった。第80回(2004年)に出場した日本学連選抜については、東京箱根間往復大学駅伝競走に関する内規第12条において、5年ごとの記念大会での参加が認められてはいるが、第85回(2009年)・第95回(2019年)記念大会では関東学連選抜が選抜チームとして出場している。
関東学連選抜チームについては、第86回(2010年)終了時から廃止・継続または新制度の導入などの議論を重ねた結果、2012年6月6日に行われた関東学連代表委員総会において、第89回(2013年)は現行どおり実施(ただし、各校から1名とし、16校から選出)、第90回(2014年)は不採用。第91回(2015年)以降は、廃止・継続のいずれの可能性も残し検討を重ねた 結果、2013年6月10日に行われた委員総会で当初案の5年ごとの記念大会の編成ではなく、第91回以降も継続して実施することが決定した。
2014年2月の関東学連代表委員総会において「関東学連選抜チーム」からオープン参加の「関東学生連合チーム」に変更された。
第100回(2024年)大会では、予選会に全国の大学が参加可能となる代わりに、本選での「関東学生連合チーム」の編成は行わない。
コース(競走路)は東京・読売新聞社前から箱根・箱根町芦ノ湖駐車場入口間の往復217.1 km。東京大手町読売新聞社前、日比谷、西新橋、三田、品川、六郷橋、鶴見、横浜駅、保土ケ谷、戸塚、藤沢、平塚、大磯、二宮、小田原、箱根町芦ノ湖駐車場入口の各点がコース上の通過点として設定されている(内規11条1項)。日本橋は復路のみ通過点とされている(内規11条1項)。
以下、各区の主な特徴について述べる。コース途中の括弧書きは主な経由地、および固定テレビカメラ設置地点。通過道路名は国道・主要道以外は割愛する。
東京・大手町→箱根・芦ノ湖 5区間/107.5km
東京・大手町 読売新聞ビル 前(北側)(往路スタート)→(東京都道409号日比谷芝浦線)→(国道15号)→(田町)→(品川駅前)
→(新八ツ山橋)→(大井)→(大森)→(蒲田(京浜急行電鉄・京急蒲田駅))→(六郷橋)→鶴見中継所
鶴見中継所→(横浜駅前)→(国道1号)→(権太坂)→戸塚中継所
戸塚中継所→(遊行寺坂)→湘南新道→(藤沢)→国道134号→(茅ヶ崎)→(湘南大橋)→平塚中継所
平塚中継所→(国道1号)→(大磯)→(二宮)→(酒匂橋)→(小田原市民会館前)→旧小田原中継所→新小田原中継所
小田原中継所→(箱根湯本駅前)→(函嶺洞門バイパス)→(大平台ヘアピンカーブ)→(宮ノ下富士屋ホテル前)
→(小涌園ユネッサン前)→(恵明学園旧校舎跡地前)→(芦の湯)→(国道1号最高点)→(元箱根)→箱根・芦ノ湖(往路ゴール)
箱根・芦ノ湖→東京・大手町 5区間/109.6 km
箱根・芦ノ湖(復路スタート)→国道1号→(芦之湯)→(恵明学園旧校舎跡地前)→(小涌園前)→(宮ノ下温泉郷)→(大平台)
→(塔ノ沢温泉郷)→(函嶺洞門バイパス)→(箱根湯本駅前)→小田原中継所
小田原中継所→(小田原市民会館前)→(二宮)→(大磯)→(国道134号)→平塚中継所
平塚中継所→(湘南大橋)→(茅ヶ崎)→(浜須賀交差点)→湘南新道→(藤沢)→(遊行寺坂)→戸塚中継所
戸塚中継所→(権太坂)→(横浜駅前)→国道15号→鶴見中継所
鶴見中継所→(六郷橋)→(蒲田(京急蒲田駅))→(大森)→(大井)→(新八ツ山橋)→(品川駅前)→(田町)
→(日比谷通り(都道409号))→(鍛冶橋通り)→(中央通り)→(日本橋北詰交差点)→東京・大手町 読売新聞ビル 前(南側)(復路ゴール)
東京箱根間往復大学駅伝競走競技実施要項並びに東京箱根間往復大学駅伝に関する内規第5章「競技細則」第15条 - 第21条に基づいて行われる。
競技者が競技中にケガや疾病などによって走行困難となり歩行、立ち止まり、横臥などの行動に移った場合で、本人が競技続行の意思をもっている場合にも、運営管理車に同乗の競技運営委員、走路管理員、監督またはコーチの三者の合意によって競技を中止させることができる(内規第17条第1項)。競技中止の通告は、大会の競技運営委員が当該走者に対して赤旗を挙げて示す、という手順で行われる。
競技者が走行困難となり競技中止・途中棄権となった場合、その区間の前区間までの記録は公式に認められるが、次区間からはオープン参加として繰り上げ出発し以後走行そのものは許されるが記録は公式に認められない(内規第17条第2項)。
大会史上、計11大会で延べ15チームが途中棄権している。
現行ルールでは存在しないが過去の記録の上では、正規の選手が走行不能となった時に補欠選手が改めて走り直す「代走(再走)」が行われているケースが確認できる。これは当時のルールが「走行不能になった場合、途中棄権とはならず、代走にて再度該当区間初めから走り直し記録は残る」 となっていた事による。このケースでは同一区間について複数名の選手名の記載が確認できる資料がある。このような「代走(再走)」で過去の記録の上では5件確認されている。
タスキの受け渡しは、前走者が完全に所定の中継線を通過した上で、中継線の進行方向20m以内で次走者に渡して行うこととなっている(内規第18条第2項)。
往路の鶴見・戸塚中継所については先頭走者から10分遅れたチーム、往路の平塚・小田原中継所については先頭走者から15分遅れたチーム、復路すべての中継所については先頭走者から20分遅れたチームは、交通規制の時間を長引かせないため、各中継所審判主任の裁定で、前走者が到着しなくても次の走者を出発させる(内規第19条)。これを「繰り上げ出発」という(報道などでは「繰り上げスタート」と言われる)。
繰り上げ出発を採用する他の駅伝と同様に、チームが繰り上げ出発となった場合、走者は「繰り上げタスキ」と呼ばれるタスキをかける。箱根駅伝の場合、内規第16条第3項により、繰り上げ出発のチームは、2区から4区・7区から9区では、大会本部で用意する黄色と白色のストライプのタスキを使用することになる。そのため、それまで走っていた選手らにとっては、自らの学校のタスキが全区間つながらなかったという悔しさがにじみ出る瞬間であるといわれ、実際に日本テレビの放送では「無念の繰り上げ」という表現も使われる。同時に出場校はすべての中継所で繰り上げを回避するべく高い競技レベルを維持することが要求される。
繰り上げ出発が行われた場合、各チームが走行している順位(見かけ上の順位)と実際の順位が異なる場合を生じるため、チームの総合順位は見た目のタイムに繰り上げ分の時間差を加算して算出される。テレビ中継における順位は、繰り上げ出発による時間差が換算された上で表示される。
繰り上げ出発となったチームの場合、走行順で最初にゴールした場合でも繰り上げ分の時間差を加算すると総合優勝とならないケースがある。
2012年(第88回)では、神奈川大学の9区走者が鶴見中継所まで残り100m地点で脱水症状のため転倒し、ふらふらになりながら繰り上げスタート直前に10区走者にタスキを渡した。このシーンでは日本テレビが独自に計測した繰り上げまでの時間と公式記録に差があったため、日本テレビではあたかも繰り上げ出発の時間を過ぎても審判員が選手がタスキを渡し終えるまで繰り上げ出発を行わなかったかのように見え(画面では繰り上げまでの時間が数秒間0:00と表示されていた)、大きな話題を呼んだ(公式記録では1位からちょうど20分差)。
復路のスタートは、1位から10分以内の大学は時差出発を行い、その他の大学は1位校のスタートから10分後に全員揃って同時出発する(内規第20条)。つまり、往路のゴールにおいて1位から10分を超えて到達した大学は、3日の復路では午前8時10分(JST)に同時出発となる(報道では「復路一斉スタート」「繰り上げ一斉スタート」などと呼ばれる)。
同時出発が行われた場合も繰り上げ出発と同様に、見た目のタイムに繰り上げ分の時間差が加算される。しかし、一斉出発の場合は往路からつないできたタスキが途切れるわけではないため、「無念の」などの表現が用いられることは少ない。
復路の一斉スタートも10分ではなく15分ないし20分にすべきという主張もあるが、交通規制などの関係から難しいとされる。
走行結果が同タイムの場合はゴールの着順に基づき成績順位とする。ただし、繰り上げ出発などによりゴールの着順が成績順位を示さない場合の同タイム校の順位決定は、区間上位者数の多少によるものとされる。まず区間1位の数で比較し、同数ならば区間2位の数と順位を一つずつ下げながら数を比較していき、多い方が上位となる(内規第21条)。
この方法でも同タイム校が複数になった場合は、すべて同順位として扱われ、10位同タイム校が複数になった場合は、すべて10位校として翌年へのシード権が与えられる(内規第21条)。
創設当時の関係者達から取材した詳細な記録としては、箱根駅伝が着想されたきっかけは以下のとおりである。1919年10月、東京高等師範学校出身の金栗四三(日本人初のオリンピック選手、「日本マラソン界の父」と呼ばれた)、明治大学競走部の沢田英一(明治大学の出口林次郎と札幌~東京間を22日間で走破)、東京高等師範学校体育課教授の野口源三郎(1924年パリオリンピック出場)の3人が、明治大学競走部の山口六郎次(後の国会議員、大日本体育協会常務理事)から招聘され、山口の母校である埼玉県の鴻巣で行われた小学校の運動会で審判を務めた際、東京との車中での3人の談論の中で、沢田英一がその年の6月に同窓の出口林次郎と二人で札幌・東京間の走破を成し遂げていたことを踏まえ、世界の耳目を集め、日本の長距離選手を育成するような外地での長距離走はできないものかと考えた。このときの結論が「アメリカ大陸横断駅伝」であった。その「予選会」という位置づけで国内での駅伝大会の実施が企図された。アメリカ大陸横断コースで最も大きな障壁となるであろうロッキー山脈の走破を見据え、この「予選会」のコースとして選ばれたのが山越えをコースに含む東京-箱根間であった。金栗らは大学や新聞社を回って参加と協力を訴え、金策に苦労しながら1920年2月14日に第1回箱根駅伝を実施した。箱根駅伝は始まるが、肝心の「アメリカ大陸横断駅伝」は実現しなかった。明治大学の出口林次郎と早稲田大学の生田喜代治らは箱根駅伝の実施に協力を惜しまなかった報知新聞社を訪ねて再び計画への協力を願ったが、実現は難しいという答えしか得られなかった。二人はあきらめず毎日新聞社の資金を得て調査のため1922年にアメリカに渡った。結局「アメリカ大陸横断駅伝」の話はそのまま頓挫した。その後、出口はコーネル大学からベルリン体育大学に学び、母校明治大学で教鞭をとることになった。しかし生田は渡米5年目の1927年メキシコのカンセンシコで事業をめぐるトラブルに巻き込まれて横死している。資料によっては「アメリカに渡った学生が殺害されたため、アメリカ横断駅伝の計画はついえた」という書き方がされていることがあるが、実際には計画は早々に頓挫しており、生田の死によって駅伝計画が中止されたわけではない。
別の説もある。箱根駅伝は、宿駅間を継走し文書や情報を伝達していた宿駅伝馬制(略して「駅伝」)の飛脚(現在の郵便配達制度)をもとに、手紙に見立てた襷を、東京から東海道の宿駅があった鶴見(川崎宿)、戸塚(戸塚宿)、平塚(平塚宿)、小田原(小田原宿)で引継ぎ、箱根町郵便局(箱根関所)に届けて、東京に戻るまでの速さを競う大学対抗戦のイベントとして開催されたという説もある。第1回から第12回までの往路ゴール地点は箱根関所跡で、第22回(箱根神社)を除く第13回から第44回までは箱根町郵便局がゴール地点だった。その開催目的は、東海道の要衝として置かれていた箱根関所の廃止(1869年)と、その情報通信の重要性から関所近くに建てられた箱根町郵便局開局(1871年)の50周年を記念すると同時に、寒さや雪で観光客が少なくなる冬の箱根に観光客を呼び込むためで、宿泊客を増やすために2日間に渡って開催されたという説がある。しかし第1回大会・5区箱根の山中で、慶應義塾大学の二木選手(山岳部主将)が遭難して消息が全く不明になり、箱根町の青年団は松明を持って捜索し、小雪が降る寒さの中、木にしがみつき泣きじゃくる選手を発見した。時にマイナス10℃以下になる冬の箱根で、最悪の事態にならずに済んだが、この遭難により観光地箱根のイメージ悪化を懸念し、観光客を呼ぶという目的を公にすることが出来なくなり、「長距離選手を育成する」という目的になったといわれている。現在では「長距離選手を育成する」という目的が定説になっている。当初はイベントだったためルールが曖昧で、人力車夫や陸上以外の他競技の選手が走ったこともあったが、「長距離選手を育成する」という目的になることで回数を重ねるごとに陸上競技性が強くなり、1953年NHKによるラジオ放送、1987年日本テレビが中継を開始するなど放送技術の進化もあり、細かいタイムを競い合う大会になった。ルールが厳格化し競技性が強くなる過程で、駅伝という言葉の意味が「宿駅伝馬制(情報通信の手段)」から「陸上競技(リレー形式での長距離走)」に変化した。そしてその陸上競技の駅伝は、箱根駅伝を参考に全国で開催されるようになり、日本独自のスポーツとして定着した。
黎明期は現在のように開催期日が固定されていたわけではなかった。「学生の本分は勉強」という理由で、午前中に授業をした後で午後からスタートすることもあった。このためにレース途中で日没となり、中でも5区の選手が暗闇の中を走らなければならなかったが、実際には地元の青年団の団員が松明を持って伴走したために事なきを得た。
山登りの5区は当初はスタートとゴールしか決まっておらず、出場校は箱根山中をできるだけ近道をしようと思っていた。選手を心配した地元住民たちが松明を持って伴走するなど協力を得て近道をするチームはなく、全チームが無事に走り終える。しかし山登りのあまりの苦しさに、道端の木にしがみつき泣きじゃくる選手もいた。
1925年の第6回大会で、日本大学は選手の代わりにタスキをもらった人力車夫が走ったこともあり4人抜きを見せたが、翌年の出場を辞退した(人力車夫事件)。
勤労学生の出場で二重登録による失格処分になったり、ゴール直前で失神した選手を関係者がラインまで引きずり込んだにもかかわらず失格にならなかったりと失格に関する基準も曖昧だった。箱根駅伝関係の書籍に出場校の歴代全成績が掲載されているが、公式順位がついているものの実際には失格扱いになっている大学がいくつかある。かつての成績については資料によって若干の相違点が見受けられる。
第二次世界大戦前は学制の違いもあり、大学予科から大学本科まで入れると5回以上の出場が可能だった。大学専門部から予科を経て本科まで通い、最高で8回出場を果たした選手がいる。
第二次世界大戦前から終戦直後に掛けては学生数の絶対的な不足もあって、1チーム10人のメンバーを組むこと自体が困難だった。そのため、戦後すぐのころまでは他の種目の選手が起用されることは決して珍しいことではなかった。同じ陸上競技である短距離や跳躍、投擲選手が起用されたことはまだいい方で、ラグビーやスキーの選手が登場した例も多かったという。現在でも高校から陸上を始めた選手は多く見受けられ、第82回(2006年)・第83回(2007年)大会に出場した亜細亜大の岡田晃や第84回(2008年)・第85回(2009年)・第86回(2010年)に出場した大東文化大の清野篤のように大学から陸上競技を始めた選手もいる。1970年代ごろまでは実業団経由で入った選手も多かった。
モータリゼーション化で交通渋滞が増えてきたのが高度経済成長のころ。全国的な知名度はまだ低かったがコース沿線地域での人気は高かったため、コース周辺の交通渋滞に警察からも開催中止要請が出たこともあった。主催者側と警察側との折衝で15校制や繰り上げスタートなどのルール改正がなされたことにより、中止要請は出なくなり15校制は第78回(2002年)まで続いた。
1960年代から1970年代に体育系学部を擁する大学が台頭したが、この頃は学生運動の時期と重なり好成績にも影響しているとする説もある。
注:出場校数に学連選抜チームは含まない。
以下のような表彰がある。
表彰(優勝校・入賞校・区間賞・金栗四三杯等)は「閉会式」の会場で行われるが、往路優勝の表彰については芦ノ湖の特設会場の「往路表彰式」で行われる。閉会式は1月3日の大会終了後によみうり大手町ホールで行われている。
運営車両は以下の編成
その他、報道関係車両(日本テレビ所有のテレビ中継車とバイク中継車、NHK(日本放送協会)所有のラジオ中継車、共同カメラ車(小型トラック)、新聞社の報道車)や、警視庁・神奈川県警察の警察車両が隊列を組む。
第78回までは陸上自衛隊が担当。陸自撤退後の第76回からは三菱自動車が運営車両を提供していたが、リコール隠し騒動の影響で第79回(2003年)をもって撤退。第80回(2004年)から第86回(2010年)まではホンダが運営車両を提供した。この間は大会本部車に、ホンダで開発していた燃料電池自動車を冬季公道走行試験を兼ねて投入していた。
第89回(2013年)まではホンダが車両提供契約を締結していたが、第87回(2011年)以降はトヨタが運営車両全て(医務車と一部の車両を除いてハイブリッドカー)を提供。また第90回(2014年)以降の運営管理車には、各チームのたすきと同じ色のラインテープによる装飾(ボンネット・リアハッチ・左側面)が行われている。
大会を支えているのは関東学連に加盟している加盟校である。創設以来の学生主体を現在も守り、沿道の走路員スタッフとして学生が起用されている。
箱根駅伝に出場するチームで選手や付き添い以外の部員、予選会で落選したチームの選手のほかにも1年生を多数スタッフとして送り込んでくる大学、トラック&フィールドも抱える大所帯の大学からも多数のスタッフが派遣されており、過去には末續慎吾、為末大なども走路員としてスタッフに加わった。
駅伝に出走する選手のアクシデント等への対応のため、走者に車で伴走する医者のほか、各中継所に数人程度の医者が待機している。1992年より、順天堂大学医学部同窓会「順神会」の有志がメディカルボランティアを行っている。
かつてはスタートとゴールのみに医師がいる状態で、大手町側は読売新聞社の産業医が担当していたが、読売新聞本社ビルの建て替えのため対応できなくなった。昭和年代にも、途中棄権者が出た際に医師が不在であることが問題になったこともあり、関東学連と順天堂大学医学部OBの宮川政久(2022年現在は川崎市の宮川病院院長)が医学部を持つ大学への協力を求めたが、無報酬であることなどがネックとなり協力を得られなかった。やむなく宮川が順大同窓会に助けを求め、1992年から同窓会が医師の派遣を行うようになった。
ユニフォームが白地に紫(藤色)のラインが入った駒澤大学と、紺色(茄子紺)の順天堂大学が激しい優勝争いを繰り広げていた2000年前後に使われていた言葉。第75回(1999年)から第84回(2008年)までは、亜細亜大学が優勝した第82回(2006年)を除き、駒澤大学、順天堂大学のいずれかが制している。
「山の神」は、全10区の中でも箱根の山登り区間を含む5区を担当し、特に優秀な成績を修めかつ人々の記憶に強い印象を与えた選手を讃える称号である。現在は3人の選手が「山の神」と呼ばれている。
スポーツライターの生島淳は『元祖・山の神』を1974年から4年連続で5区の区間賞を獲得した大久保初男(大東文化大学)であるとし、今井以前の「山の神」に上田誠仁(順天堂大)や木下哲彦(金哲彦、早稲田大学)を挙げている。奈良修(大東文化大)も今井以前の「山の神」とみなす記事もある。
なお、4代目の「山の神」の条件として、5区の距離延長前の第81回で今井が樹立した1時間09分12秒に近い記録を出すことが挙げられている。その後第93回で元の距離に戻され、ほぼ同じコースになったためである(ただしその間に函嶺洞門バイパスへコース切り替えがあったため、完全に同じコースではない)。2024年の第100回大会では、山本唯翔(城西大学)が1時間9分14秒とそれに迫る記録を出し、「山の妖精」と称されている。
タスキを次走者へ渡したあとにコースへ礼をする選手も散見される。これは箱根駅伝へ出場でき、無事に走れたことへの感謝を示す行為で戦前から見受けられる。従来は個人的な行為であり、チーム全体としては行われてこなかったが、第85回(2009年)に東洋大学が優勝した際、前年に元部員による不祥事があったにもかかわらず関係者の配慮などで出場できたこと、沿道で暖かい声援を送ってくれた全ての観衆へのお礼として自粛した胴上げのかわりに行われた。東洋大学は第86回(2010年)、第88回(2012年)に総合優勝した際も胴上げの前にまずコースに向かって監督・コーチ・選手全員で礼をした後に胴上げをしている。
第87回(2011年)で優勝し、大学駅伝三冠を達成した早稲田大学の優勝タイムは、従来の総合記録を3分以上更新し、復路が日本橋を経由するルートに変更された第75回(1999年)以降では初めて11時間を切った。そして早稲田大学とはわずか21秒差で2位の東洋大学(11時間00分)、3位の駒澤大学(11時間03分)も、従来であれば十分に優勝出来るタイムであった(従来の総合2位の最高記録は11時間07分台であり、11時間06分以内のタイムで総合優勝を逃したケースはなかった)。
以降の大会では高速化はさらに進化し、第88回(2012年)では優勝した東洋大学の総合タイムは、前年の早稲田大学の記録を8分以上更新する10時間51分台であった。5区の山登りを(柏原が走ったことを)加味しても全区間の1kmラップが3分を切るという、驚異的なタイムであった。4位早稲田大学でも11時間3分台前半でフィニッシュしており、優勝争いするには11時間を切る実力が求められるようになった。第91回(2015年)で優勝した青山学院大学は、初めて10時間50分を切る10時間49分台でゴールした。
第96回(2020年)では、1区・8区・9区を除く7区間で区間新記録が生まれ、往路では全チームが5時間40分を切るタイムでゴール。復路でも全チームが5時間40分を切るタイムでゴールした。総合タイムでは青山学院大学と東海大学が10時間50分を切ったほか、シード権を得られる上位10校が全て11時間を切るタイムを記録した。さらに、第98回(2022年)では東海大学が、第99回(2023年)では東京国際大学が総合タイムで11時間を切ったにもかかわらず、シード権を獲得できなかった。
2010年度以降、総合優勝タイムが11時間を超えたのは、強風に見舞われた第89回と、4区・5区の距離の再改正が行われた第93回のみである。往路優勝および復路優勝のタイムが5時間30分を超えたのもその2大会のみである。
2010年代以降の高速化の要因として、各大学ともに選手のスカウティングやトレーニングに力を入れた結果、選手層が厚くなり優勝争いのレベルが非常に高くなったこと、ナイキの厚底シューズに代表される高性能ランニングシューズが普及し、記録が更新しやすくなったことが挙げられる。
優勝を目指す大学にとっては、「つなぎ区間」という概念は無くなりつつあり、全ての区間が「重要区間」「エース区間」と位置づけられるようになってきており、いかに力のある選手が万全の体勢で走れるかが鍵となっている。
一方、ハイペースに付いて来られない下位の大学にとっては、繰り上げスタートのリスクが非常に高くなっており、如何にタイム差を抑えて母校のタスキを繋ぎきれるかが焦点となっている。事実、高速化が顕著になった第88回と第90回から第95回まで、第100回の計8大会は、復路の鶴見中継所(10区スタート地点)で4チーム以上が繰り上げスタートになっており、戸塚中継所(9区スタート地点)でも繰り上げスタートが発生。さらに、第92回から第94回までの3大会は復路の平塚中継所(8区スタート地点)で繰り上げスタートが発生していた。
ただ、下位校の記録も年々向上し、第96回以降、復路の鶴見中継所での繰り上げスタートは2チーム - 3チームにとどまっており、各校の戦力も徐々に均衡するようになってきている。
第32回大会が開催された1956年の12月11日、箱根町の国道1号線・宮ノ下界隈に於いて駅伝練習(試走)を行っていた専修大学の学生、小山国夫が交通事故に遭い、死亡した。事故当時、小山は前記国道1号線を駆け下りていたところだったという。小山は、前記第32回大会に専修大学の第7区走者としてエントリー、1時間13分35秒のタイムで区間9位という成績を残していた。
事故から2年余り経過した1959年3月5日、宮ノ下観光協会の手により、小山に対する鎮魂の意を込めた当駅伝35回記念碑が建立された。その記念碑は宮ノ下交差点から元箱根方向に約300m上ったところの右手、箱根神社宮ノ下別院付近に存在し、裏面には小山の母親による鎮魂の句が刻み込まれている。
コースに於ける事前試走は、現在、安全上の理由から当駅伝の主催者・関東学連により禁止されている。しかし実際には、箱根山中を試走する箱根駅伝出場ランナーとおぼしき姿が散見されている。
2005年3月に芦ノ湖畔に箱根駅伝を題材にした箱根駅伝ミュージアムがオープンした。スポーツを題材にした博物館は多いが、1つの行事として博物館化されることは極めて珍しい。運営は富士屋ホテルが行っている。
箱根駅伝復路の翌日から2日間、出場した大学の学生たちなどがゴミ拾いして同じコースをもう一度歩く。1998年に神奈川大学のウォーキング活動を復活させる動きがきっかけとなり、2006年に「大学対抗・ゴミ拾い」の形式でリニューアルされた。「もう一つの箱根駅伝」と呼ばれた。
日程は往路の5区間を2日に分けて行い、1日目が東京・大手町から神奈川・平塚までの3区間。2日目は平塚 - 箱根の2区間をゴミ拾いしながら歩く。順位は1袋10Pで半分だと5P。到着時間は最後のチームを基準とし、1分早いごとに1Pが加算される。
チーム人数は原則5人だが、5人集まらない限り3人1チームで参加が認められる。
当初は大学のみだったが現在は一般の参加も可能となり箱根駅伝に出場できない女性や社会人、海外からのチームも参加している。
2011年に「もう一つの東海道駅伝」と名称を改め、京都・三条大橋までのゴミ拾い駅伝を実施。東京 - 神奈川間以外に活動を広げた。
箱根駅伝は日本のスポーツの中でも長い歴史を持つイベントである。そのために様々なエピソードが生まれた。
箱根駅伝は、1987年以後の全国完全生中継(日本テレビ)による人気沸騰により、多くの問題が浮き彫りにされてきた。以下に主要な議論をまとめる。これらを解決すべく、関東学連に設けられた「駅伝対策委員会」の存在に期待が集まる。
テレビの全国生中継開始と同じ、第63回(1987年)に初出場を果たした山梨学院大学は、出場3年目からアフリカ人留学生の選手を呼び入れた。主催者側の判断により箱根駅伝を外国人選手が走ることができるようになり、その圧倒的な走りで新風を巻き起こした。特に、彼らは往路のエース区間とされる「花の2区」で、「ごぼう抜き」を演じるケースが非常に多かった。その後、山梨学院大学が彼らの快走によって3回の総合優勝を果たしたことと、初出場からの連続出場を30年以上も続けたことも、アフリカ系留学生の増加に拍車を掛ける大きな要因となっている。
1980年代後半からレース全体のスピードアップが進んだことにも、留学生の登場が大きく影響している。既に全国高校駅伝やニューイヤー駅伝では、外国人選手の起用制限事項(1チームあたりのエントリー数、起用区間の制限など)があり、箱根駅伝においても第82回(2006年)からは、前述の内規第9条を変更し、16名のエントリー時点では2人まで登録可能だが、実際に本番で走ることができるのは1人に限ると決められ、2005年秋に実施された予選会より適用されている。2006年以降、留学生を2名エントリーしたのは山梨学院大学(第85回・第92回・第99回 - 第100回)、日本大学(第86回・第89回・第92回)、拓殖大学(第87回 - 第88回)、国士舘大学(第95回)、創価大学(第96回・第99回)、東京国際大学(第96回 - 第99回)、駿河台大学(第100回)の例があり、いずれの例も、実際に走ったのは1名のみで、もう1名は補欠選手となっている。大学三大駅伝のうち、全日本大学駅伝では2011年より箱根駅伝と同様の人数規制が行われることになったが、出雲駅伝においては規制がない。
留学生の起用が好成績に結びつくとは限らない。実際に留学生を擁して総合優勝を果たしたのは前述の山梨学院大学のみで、第71回(1995年)以降、新たに留学生を擁して総合優勝を成し遂げた大学は出ていない。シード権においても例外ではなく、第100回(2024年)では7校が留学生を起用し、シード権を獲得できたのは城西大学(3位)、創価大学(8位)、大東文化大学(10位)の3校であった。しかしレースの高速化が顕著となった2010年代以降、留学生を受け入れる学校が増加しており、第100回大会予選会では参加57校中18校から留学生が出場し、そのうち5校が予選を通過している。
箱根駅伝本大会でアフリカ系留学生が走った大学は、第65回(1989年)の山梨学院大学を筆頭に、亜細亜大学(第69回)、平成国際大学(第77回)、日本大学(第81回)、拓殖大学(第87回)、東京国際大学(第92回)、創価大学(第93回)、国士舘大学(第95回)、専修大学(第98回)、駿河台大学(第98回)、大東文化大学(第99回)、城西大学(第99回)の12校である。
予選会でアフリカ系留学生が走った大学は、山梨学院大学(第65回)、亜細亜大学(第69回)、流通経済大学(第72回)、平成国際大学(第75回)、日本大学(第87回)、拓殖大学(第87回)、東京国際大学(第89回)、桜美林大学(第91回)、日本薬科大学(第92回)、創価大学(第93回)、武蔵野学院大学(第93回)、国士舘大学(第95回)、駿河台大学(第95回)、専修大学(第98回)、大東文化大学(第98回)、城西大学(第99回)、麗澤大学(第99回)、上武大学(第99回)、立正大学(第99回)、札幌学院大学(第100回)の20校である。
白人やアジア系留学生が出場した例としては、戦前の草創期に権泰夏・金恩培・南昇竜ら朝鮮出身選手の活躍が見られたものの、戦後はほとんど例が無い。
大学経営策の一環として、箱根駅伝にPR効果を期待する大学が増えている。そのため「陸上競技部」と称しながら実際には長距離部門を中心に運営している大学や、「駅伝部」を称する大学、「陸上部監督」とは別に、駅伝に特化した「駅伝監督」を擁する大学も見られる。予選会に出場する大学の中には予選会に全力を傾けるため、インカレへの出場に消極的になりがちな大学もある。
予選会の成績に関東インカレのポイントを導入した背景には、上記の「駅伝偏重」対策が大きく影響している。主催者側も箱根駅伝を「世界に通じる陸上競技者の育成」としており、その原点に立ち返る意味で導入した。このシステムは導入時から物議を醸しており、関東学連も導入後5年を経過した2007年を機にシステムの再構築も考える可能性を残した。一方で廃止論などに対し沢木啓祐は「たまたま同じ大学が悲劇の対象になっているだけ」という見方を示し、既に導入から5年経過しており各大学とも対策を練っていると廃止論を一蹴。青葉昌幸も「出場枠増にも様々な経緯があるだけに、そのような事情を知らないで(落選したチームが)かわいそうだと言われても困る」とコメントしている。総じて関東学連側は、見直し論については当初の予定どおり検討。第84回(2008年)の予選会よりポイント方式が変更されたものの廃止には否定的な見方を示していた。
インカレポイントについて、第86回(2010年)終了時から廃止・継続又は新制度の導入などの議論を重ねた結果、2012年6月6日に行われた関東学連代表委員総会において、第89回(2013年)は現行どおり実施、第90回(2014年)は不採用とすることが決定された。第91回(2015年)以降については、廃止・継続のいずれの可能性も残し、継続して検討を重ねたところ、2013年6月10日の関東学連代表委員総会で「インカレポイントは5年に1回の記念大会にのみ採用する」と決定された。具体的な運用については今後決定するとしている。現在検討されている方式は予選会の枠とは別個に予選会が免除される「インカレポイント枠」の創設である。この方式では、直近5年間の関東学生対校選手権の総合順位とエントリー人数をポイント換算して上位1位の大学が本戦の出場権を獲得することになる(時事通信社の報道による)。
2014年3月31日の関東学連代表委員総会において、従来の関東インカレポイントにかわって、第95回大会からの5年ごとの記念大会において5年間の総合成績の累計が最も多い大学に出場権を与える関東インカレ成績枠が創設されることが正式に決定された。しかし、第95回大会後、この関東インカレ成績枠は1回限りで廃止されることが決定。今後インカレポイントがどのように活用されていくのかは不明である。
箱根駅伝は、地方組織である関東学連が主催する地方大会であるにもかかわらず、テレビ報道の影響により全国的に知名度が高く、男子学生駅伝の分野ではブランド力、実力ともに、事実上の頂点をとっている。一方で、出場は原則として関東学連の加盟校に限られるため、有力選手が箱根出場を目標に関東地区の大学へ進学するようになり、男子陸上長距離の人材の東京一極集中が起こっている。
他地域の大学からは、箱根駅伝への門戸開放を求める声がしばしば発生する。古くは、1960年代に関東学連内で、予選会への出場権の門戸開放を検討したこともあるが、予選会への参加を全国に開放した場合には全国大会となるため、大会の主管を日本学連へ移す必要が生じる。開催の主導権が変わることを避けたかった関東学連有力校のOBらが中心になって反対したため、結局この時の門戸開放は実現しなかった。
この動きを受けた他の学連、特に関西学連・東海学連が中心になり、箱根より高い権威を持つ全国大会を創設する目的で1970年に全日本大学駅伝が創設される。続いて、1989年には出雲駅伝が創設された。この両駅伝大会は、日本学連が主催する全国大会であり、形式上はこの両大会が本来最も高い権威をもつことになった。
しかし、以降も出雲駅伝、全日本大学駅伝と箱根駅伝を合わせて「大学三大駅伝」と並び称されるなど、箱根駅伝のブランドは相変わらず健在であり、更に地区間の実力も埋まっておらず、出雲駅伝、全日本大学駅伝では、関東地区の大学が上位を独占する事例が常態化している。更に関東地区大学の側でも、そのブランド力に加えて、選手に求められる力量も箱根駅伝が一番大きいことから、箱根駅伝を年間の最大目標に据えてスケジュールを組んでおり、それより前の時期に行われる出雲駅伝と全日本大学駅伝を、箱根駅伝の前哨戦と考え、必ずしもベストメンバーを送り込まない大学も少なくない。
箱根駅伝の門戸開放は以降も議論されているが、教育機関を指導している文部科学省は、スポーツの全国大会は実力本位の選手権大会と、各地区代表の選抜大会の2つしか開催しないよう学生競技団体へ指導を行っており、全日本大学駅伝が選手権大会、出雲駅伝が選抜大会であるため、箱根駅伝を門戸開放されると、この三大会の関係が問題となる。第80回(2004年)には日本学連選抜として地方大学の学生が出走し6位相当の成績を残したが、これに対し関東の大学から反発の声が上がった結果、以降の記念大会では日本学連選抜自体が編成されなくなってしまった。第100回(2024年)には、予選会に全国の大学の出場を認めたが、この発表が2022年6月だったことから地方大学の関係者からは「すでに関東の大学への高校3年生のスカウトが終わっているタイミングであり、あまりにも強化に時間が足りなすぎる」との声が上がり、青山学院大学監督の原晋も「1回限りの解放は茶番」と批判している。そしてその言葉通り、予選会を通過した大学は全て関東地区の大学となり、第101回(2025年)以降は元の関東地区の大学のみに戻されている。
従来はテレビ東京がゴールのみ放送していたが、1987年から日本テレビが全国にネットして生放送を始めると、出場大学にとって宣伝効果も現れて下記のような弊害を挙げる者も散見する。
持久力向上のために長い距離を走る練習ばかり行い、速度を付けさせるトラック競技を軽視することで、選手に速度が身に付かず、世界大会で勝てなくなるという指摘がある。高校時代のトップ選手であった遠藤日向や、外国人留学生のジュリアス・ギタヒ、サムエル・ワンジル、ビタン・カロキのように、敢えて関東の大学に進学せず、直接実業団に入る例も見られる。
箱根駅伝で大活躍した選手が大学卒業後に実業団に入ったものの、期待された程の活躍ができずに故障や不調に悩まされて引退した選手も少なくない。出場できても卒業せずに中退した者まで現れている。
対照的に、箱根駅伝を走らずに実業団や世界に通用した選手も存在する。
箱根駅伝創設の目的は「世界に通用する長距離選手の育成」であるが、実際には多くの選手が箱根駅伝を最終目標としており、卒業後は実業団に進まず競技の第一線から退くのが現状であり区間賞・区間新記録を樹立した選手も例外ではない(中澤晃、鐘ヶ江幸治、高橋宗司)。一方で、箱根駅伝という大きな目標があるからこそ、モチベーションを保って陸上競技を続けている選手が多い、という一面もあり、日本の男子陸上長距離界の裾野の拡大に箱根駅伝は貢献していると主張する者も多い。
大学陸上部関係者が事件や不祥事を起こした場合、各大学で相応の処分がなされるほかに、箱根駅伝参加大学に対しては競技団体である関東学連が同連盟の規約に基づき審査を行い、当事者又は所属大学に対して罰則を与えることがある(規約第62条)。
第55回(1979年〈昭和54年〉)から東京12チャンネル(1981年〈昭和56年〉にテレビ東京へ改称)が初めてのテレビ放送を開始した(1979年から1982年まではサンテレビへもネット、1983年からはネット局がテレビ大阪に変更)。しかし完全中継ではなく、1月3日12:00 - 13:54の録画ダイジェスト放送(ゴールは生放送、放送を開始した1979年は13:25 - 14:10の放送)であった。その後、日本テレビが中継することに伴い第62回(1986年〈昭和61年〉)でテレビ東京での放送は終了した。
テレビ東京制作版の映像は長らく日の目を見る機会が非常に少なかったためお蔵入りしたが、2014年(平成26年)に放送された『テレビ東京開局50周年特別企画 50年のモヤモヤ映像大放出! この手の番組初めてやりますSP』の中で第59回(1983年〈昭和58年〉)の映像を蔵出しで放送された。テレビ東京で中継されていた時代の最高視聴率は13.4%(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)と同番組の中で紹介されている。
第63回(1987年)から日本テレビが特別後援に入り、全国ネットの本格的なテレビ中継が開始された。
地上波に加え、第73回 - 第76回(1997年 - 2000年)の中継はCS★日テレでも同時放送。その後はBS日テレ(当日)にてダイジェスト版、G+ SPORTS & NEWS→日テレジータス(大会終了から数日後)にてダイジェスト版や完全版が放送されている。また第94回(2018年)以降、インターネットでの動画配信も行っている(後述)。
系列局(ネット局)がない沖縄県内では、上記の衛星放送やインターネットを介した視聴が主だったが、県内のケーブルテレビ局が鹿児島読売テレビの一部番組を区域外再放送する方式を取り入れたことにより、本番組も第96回(2020年)から沖縄ケーブルネットワーク(テレビにらい)で、第99回(2023年)から宮古テレビでもリアルタイム放送が行われている。
予選会についても、第68回(1991年)から地上波の録画中継(ダイジェスト版)を開始し、後に生中継をG+ SPORTS & NEWSにて開始。第90回(2013年)から生中継は地上波での放送となり、全国の大学に参加資格が与えられた第100回(2023年)は初の地上波全国ネットでの放送となった(その他詳細は当該項参照)。
ラジオでの中継はテレビでの中継よりも古くから行われ、複数の放送局が中継を行っている。以下に制作局の体制や概要について記述する。ラジオ中継の実況用の映像は日本テレビが制作、テレビ放送用とは別に各局に送っている。
1953年(第29回)からNHKラジオ第1(R1)で放送。中継開始当初は品川から小田原の間はノイズが酷く生中継が困難だったことから、往路と復路共に13時からの放送で、番組途中までは録音による時差中継、後半は生中継としていた。やがてスタートからの生中継が行われるようになるも、1993年時点でも別番組放送のため10時台はまるまる中断していた。第70回(1994年)以降はこのような中断のない完全中継態勢だが、それでも毎正時前後にニュースによる中断が入る(正午前後はローカル枠気象情報・交通情報を含め20分、それ以外は数分)。
ラジオ中継車も出している。第66回(1990年)までは3台使用していたが、第67回(1991年)以降はラジオセンター132スタジオ内のブースから、モニターに映し出される日本テレビの映像を見ながら実況を行う方式をとり、沿道に出す中継車は1台のみとして主に第2集団に付くことになった。また、各拠点にアナウンサーを配置し、電話リポートで臨場感のある実況中継を行う。なおコースにはテレビ取材用報道カメラ車も出ていて、日本テレビの移動1号車の後に付く。
NHKワールド・ラジオ日本は第88回(2012年)までは放送権上の制約および電波運用面の都合上、12時台の中断ニュースを除いて同時放送せず、当該時間帯はFM放送の邦楽関連の年始特集番組や定時番組および地上デジタルラジオ実用化試験放送の音楽番組を中心に別番組へ差し替えていたが、第89回(2013年)から全編同時放送している。
日本テレビでのテレビ独占生中継が決まる前に、関東学連はNHKにもラジオに加えてテレビも生中継を要請するも、全国参加ではないことや、山間部における中継が困難であることを理由として断られている。ただしNHKとしては、第56回大会(1980年)で、同年開催のモスクワオリンピック(後に日本は出場ボイコット)の男子マラソン出場が有力視されていた瀬古利彦(早稲田大学)が2区を走る模様を『日本の新春』という特番の中で生中継しており、「わずか3分」ながらNHKテレビでの中継事例となっている。
『文化放送新春スポーツスペシャル 第○回箱根駅伝実況中継』として中継。第33回(1957年)から第62回(1986年)までは部分的に中継し、第70回(1994年)以降の大会で完全実況生中継を実施している。
文化放送では、「箱根駅伝への道」と題した10分番組を制作したうえで、毎年10月から12月にかけて平日のナイターオフ期間限定番組に内包。毎年の大会終了後には、『箱根駅伝への道~襷と絆の物語(ストーリー)~』と題した特別番組も放送している。また、箱根駅伝と並んで「大学3大駅伝」に数えられている『出雲駅伝』『全日本大学駅伝』も中継しているため、「大学駅伝ラジオ独り占め -FIGHT THE FUTURE-」をキャッチフレーズに掲げている。
2022年からチーフディレクターを担当する黒川麻希(文化放送)によれば、アナウンサー、ディレクター、技術スタッフ、インターネットへの速報・情報発信に専念するスタッフ、アルバイトスタッフを含めて70名前後で中継を制作。同局の放送対象地域である関東地区では、他のスポーツ中継やレギュラー番組を凌ぐほどの聴取率を例年記録しているという。
第79回大会(2003年)からは原則としてNRN加盟局でも放送。後述するネット局(2020年以降は32局)では、『新春スポーツスペシャル 第○回箱根駅伝実況中継』というタイトルで、基本として8:00、8:30、9:00のいずれかの時間から14:00まで中継の同時ネットを実施する。文化放送(関東ローカル)のみで放送される時間帯(7:30 - 8:00および14:00以降)には「文化放送新春スポーツスペシャル」というタイトルを使用しているが、ネット局でも放送する時間帯には、CM明けのジングルもネット局向けに文化放送からの裏送り方式で差し替えている。
自前の中継車を出していないため、メイン実況のアナウンサー(公式サイト上の呼称は「センター実況」→「総合実況」、2023年以降は往路:斉藤一美、復路:寺島啓太)は、スタジオ(放送上の呼称は「放送センター」)で日本テレビの映像を見ながら実況(いわゆる「オフチューブ」方式)。同局の中継とは別に、大学生時代に箱根駅伝で目覚ましい活躍を見せた人物を、「メイン解説者」(2023年以降は柏原竜二が復路のみ、2024年には柏原に加えて往路・復路共通で大志田秀次)や「ゲスト解説者」(2024年は「プレーヤーズ解説」との肩書で近藤幸太郎)に迎えている。
また、「放送センター」とは別のスタジオを、「情報センター」という名称で使用。記録・タイムを伝えるアナウンサー1名(2023年以降は往路:寺島、復路:斉藤)、中継所通過時点での順位速報や(1区・6区を除く)区間の走者の氏名・大学名を伝える女性アナウンサー1名(2023年以降はフリーアナウンサーの小川真由美)、「ネットスタジオ担当」(提供クレジットの読み上げや途中飛び乗り・飛び降りネット局向けの案内を担当するアナウンサー)1名(2022年・2023年は往・復路とも松井佐祐里)を入れている。順位速報担当の女性アナウンサー は、2018年まで、Twitter上の公式アカウントに寄せられた大会・中継関連のツイートの一部も読み上げていた。2019年からは、ツイートに代わって、「応援一口メモ」(本選出場全校への事前取材に基づく注目選手の情報)を紹介している。
その一方で、中継ではニュース、天気予報、交通情報、首都圏の鉄道情報を随時挿入している。11時台後半に放送する文化放送発のニュース、天気予報、交通情報はネット局でもそのまま流れるため、同局のみで関東ローカル向けに放送する場合のタイトル(「文化放送ニュース」「文化放送交通情報」「文化放送天気予報」)やジングルを使用せず、「全国のニュース」「首都圏の交通情報・天気予報」と改題。BGMも、「箱根八里」に変更している。ネット局は9:58、10:58、12:58から5分間ずつ中継を中断したうえで、ローカル向けのニュース、天気予報、交通情報を放送。さらに、「情報センター」からの記録の読み上げや、中継所・拠点からのリポート、「応援一口メモ」の直前にはジングルを鳴らし分けている。
実況については、放送事業局報道スポーツセンター所属のスポーツアナウンサーを総動員。往路・復路とも、すべての中継所と区間内の一部拠点にアナウンサーやリポーターを配置している ため、「総合実況」と「情報センター」を担当しないスポーツアナウンサー、「情報センター」を担当しない制作部所属のアナウンサー(2023年は砂山圭大郎)、文化放送の元アナウンサー(鈴木光裕)、フリーアナウンサー(2024年は鬼頭里枝・小笠原聖)で分担している。文化放送アナウンサー時代の2020年からメイン実況を担当している寺島は、2021年4月の退社を経て、2022年以降の中継でもフリーアナウンサー(放送上の名義は「寺島啓太アナウンサー」)として担当を継続。過去には、朝日放送(2018年4月以降は朝日放送テレビ)のスポーツアナウンサーにも、中継所の一部で実況を任せた時期があった。
★印の局はラジオ・テレビ兼営局で、テレビ放送部門が日本テレビ系列に属しているため、同じ大会の中継を自社のテレビ・ラジオ放送部門で同時に流している。
制作局の文化放送(NRN幹事局の1つ)と、九州朝日放送・ラジオ沖縄を除くネット局はJRN(幹事局はTBSラジオ)にも加盟。ネット局のうち、JRNにも加盟する局(青森放送と朝日放送ラジオを除く)は、2021年4月から、毎週日曜日の8:00 - 10:00に通年で『地方創生プログラム ONE-J』(JRN32局の共同制作による生放送番組)を編成している。往路の開催と重なった2022年1月2日には、ネット局ごとに『ONE-J』側の時間変更などで対応したため、箱根駅伝中継の放送に大きな影響は生じなかった(当該項も参照)。
TBSラジオが平日のランチタイムに編成している生ワイド番組(月曜日 - 木曜日は『ジェーン・スー 生活は踊る』、金曜日のみ『金曜ボイスログ』)の同時ネットを2023年10月からで13時台限定で実施している長崎放送・NBCラジオ佐賀では、1月2日・1月3日が平日と重なった年(2024年が該当)でも箱根駅伝中継を放送するため、上記の番組については中継日のネットを臨時に返上している。
アール・エフ・ラジオ日本は日本テレビグループで、コースに当たる神奈川県を放送対象地域とするラジオ局。いわゆる独立局であるが、文化放送と放送対象地域が重複する北関東のNRN加盟局、ラジオ日本とは提携関係がある兵庫県のラジオ関西や一部のコミュニティFM局でも放送している。
文化放送の制作版と同様に、自前で中継車を走らせていないため、アナウンサーは基本として日本テレビの映像を見ながら実況。ただし、スタート・ゴール地点と各中継所には、リポーターを独自に配置している。2008年から2020年まで文化放送の契約アナウンサーとして同局制作分の中継でセンター実況などを担当してきた槇嶋範彦は、契約期間の満了(2020年3月)を経て、2021年からラジオ日本制作分の中継でリポーターやセンター実況を任されている。
ラジオ日本の放送対象地域内にコースが設けられている関係で、地域内の道路交通情報をこまめに流すことが特徴。日本テレビ・文化放送の中継と同様にサッポロビールがスポンサーに名を連ねているが、文化放送制作分中継の実況音源を活用したサッポロビールの箱根駅伝限定ラジオCMは、ラジオ日本制作分の中継でもそのまま放送されている。
関連番組として、毎年12月に「タスキでつなぐ青春の200キロ ―箱根駅伝への道―」を、火曜日 - 金曜日は20:45~21:00、土曜日・日曜日は19:45 - 20:00に放送(これにより60TRY部、タブレット純 音楽の黄金時代、THE BEATLES 10などレギュラー番組は短縮。収録放送である「THE BEATLES 10」以外はネット受け局も同様に短縮となる)。
ニッポン放送は現在、中継放送は実施していないが、毎年1月2日・1月3日の各ワイド番組(新春特番を含む)の中で随時「箱根駅伝速報」を伝える。
テレビ・ラジオ各局がそれぞれのサービスを通じて配信している。
BBQRおよびUstreamは国内はもとより、海外でも聴取可能であった。
これらとは別に、2014年大会はニコニコ生放送にて「年末年始ぶっ通し78時間全局テレビ実況」の一環としてレース解説のもようが配信された。コメンテーターは徳本一善(法政大学OB、現在:駿河台大学監督)。現地の映像・音声(日本テレビの中継映像)自体は配信されていない。
現在陸上競技を取り扱う専門雑誌はベースボール・マガジン社の『陸上競技マガジン』と、陸上競技社の『月刊陸上競技』(発行は講談社と共同)の2種類がある。
このうち前者が上記の問題を比較的多く取り上げるのに対して、後者は、箱根駅伝そのものは予想なども専門的であるが、一連の問題は取り扱うものの、余り深いところまでは書かない傾向にある。これは後者が箱根駅伝を主催する関東学連とも繋がりが深く、大会協力として当大会に参加しているためでもある。
ただ、『月刊陸上競技』の編集長はたびたび留学生制度に対して苦言を呈していることもある。
箱根駅伝の観戦ガイドブックは上記2誌の増刊号として発売されているほか、共催社である読売新聞社、後援社である報知新聞社からも発売されている。
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