村岡 兼造(むらおか かねぞう、1931年〈昭和6年〉8月27日 - 2019年〈令和元年〉12月25日)は、日本の政治家。秋田県本荘市(現、由利本荘市)出身。勲一等旭日大綬章。血液型はB型。
衆議院議員(9期)、郵政大臣(第50代)、運輸大臣(第64代)、内閣官房長官(第62代)、自由民主党国会対策委員長(第34代、第42代)、自由民主党総務会長(第42代)、平成研究会会長代理を歴任した。
秋田県議会議員を経て、1972年の第33回衆議院議員総選挙に立候補し初当選。1976年の総選挙で落選したが3年後の1979年の衆院選で政界復帰を果たす。
宇野内閣で郵政大臣で初入閣、第2次海部改造内閣で運輸大臣を務めた。竹下派時代は中西啓介と共に小沢一郎の側近として知られていたが、1992年の東京佐川急便事件で竹下派が分裂すると、中堅議員の中村喜四郎・西田司・佐藤信二らとともに反小沢の急先鋒となって小渕恵三を後継会長に擁立した。その後は、小渕派幹部として1995年から1997年まで総裁・橋本龍太郎の下で自民党国会対策委員長、同年9月発足した第2次橋本改造内閣では梶山静六の後任として内閣官房長官に就任した。1998年7月の第18回参議院議員通常選挙では惨敗し、官房長官を退任した。2000年、総裁・森喜朗の下で自由民主党総務会長に就任し、2001年4月に退任。
2003年の自由民主党総裁選挙にて橋本派は藤井孝男を擁立したが、村岡は橋本派の会長代理であり藤井の兄貴分でありながら藤井ではなく森派の現職かつ1972年衆院初当選同期の小泉純一郎の支持に回ったために、野中広務に「毒まんじゅう(この年の流行語大賞を受賞)を食らった」と揶揄された。
小選挙区移行後の総選挙では御法川英文とコスタリカ方式を取っており、2003年の第43回衆議院議員総選挙では比例区に回る予定であった。しかし、選挙前に御法川が死去したことによりコスタリカ方式が解消されたと判断し、村岡は小選挙区で立候補する。ところが、村岡は2003年の総選挙で落選し、政界からの引退に追い込まれた。
2019年12月25日16時57分、がんのため東京都内の自宅で死去した。88歳没。死没日をもって正三位に叙される。
引退後の2004年9月には、日歯連闇献金事件で、平成研究会(橋本派)の元会計責任者の証言により収支報告書不記載の首謀者として、政治資金規正法違反(不記載)で在宅起訴される。村岡は「幹部会でヤミ献金の話が出たことはなく、1億円については報道で初めて知った」と全面無罪を主張。2006年3月30日、第一審の東京地方裁判所(川口政明裁判長)は無罪判決を言い渡した。しかし、2007年5月10日の第二審の東京高等裁判所(須田贒裁判長)は判決を取り消し、禁錮10ヶ月・執行猶予3年の逆転判決が言い渡された。2008年7月14日、最高裁(泉徳治裁判長)は上告棄却の決定をし、有罪判決が確定した。
選択的夫婦別姓制度の導入に反対していた。
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