趙 治勲(ちょう・ちくん、チョ・チフン、1956年6月20日 - )は、日本棋院所属の囲碁棋士。名誉名人・二十五世本因坊。韓国釜山広域市出身。血液型はB型。木谷實九段門下。号は本因坊治勲(ほんいんぼう ちくん)。
タイトル獲得数歴代1位。史上初の大三冠、グランドスラム、名人5連覇、本因坊10連覇、通算1500勝など数々の記録を樹立。大一番での勝負強さから「七番勝負の鬼」の異名も取った。
棋道賞最優秀棋士賞9回、秀哉賞9回。6年連続賞金ランキング1位。
叔父に囲碁棋士の趙南哲、兄も囲碁棋士の趙祥衍。本貫は豊壌趙氏。
1956年6月、大韓民国釜山広域市に生まれる。父方の祖父は地方銀行の支店長でかなりの資産家であり、母方の祖父は地方財閥で役人が出入りする家だった。しかし朝鮮戦争後は、治勲の父母は無一文になっていた。兄弟は兄が3人、姉が3人おり、治勲は7人兄弟の末っ子だった。
出生したときの名前は「豊衍(ほうえん、韓国語読みはプンヨン)」だったが、まだ1歳か2歳の頃に家の外でお坊さんが通りかかり「名前を変えれば、この子は将来かならず大成する」と言われたことで、治勲と改名した。
碁は4歳頃から打ち始めた。父も打てたがかなり弱かった。父は鉄道会社にわずかに務めたことがあるものの無職だったので暇を持て余し治勲を碁会所に連れて行った。碁を覚えて1年くらいでアマ五段になった。
先に長兄の趙祥衍が訪日して木谷道場に入門していた。韓国では叔父・趙南哲に次ぐ打ち手だった祥衍だが、当時囲碁の世界最強国だった日本ではレベルが違いすぎた。そこで祥衍は家に手紙を出して「ぼくはもう遅かった。いまからでも間に合う。治勲を日本で鍛えてもらったほうがいい」と両親や親戚の説得を始めた。父は猛反対したものの祥衍の説得に負けてしぶしぶ承知した。この6歳までの記憶は治勲には無いという。
来日した日から木谷の内弟子として四谷道場に住み込み始めた。その頃道場には10人くらいの内弟子と同数くらいの通い弟子がいた。門下になった翌日に木谷一門百段突破祝賀会が開かれ、そのアトラクションの一つとして当時六段だった林海峰(現・名誉天元)に5子置きで打つことになった。118手で中押し勝ちした。
父は日本語が達者で会話も読み書きもできたが治勲は日本に来るまで日本語を知らなかった。しかし来日後すぐに覚えベラベラと喋れるようになり、口の減らない子どもとなっていた。また様々なイタズラをした。
7歳で日本棋院の院生となった。それまでの入段最年少記録は林海峰の13歳だったが、治勲は来日前後から10歳までに入段して新記録をつくるだろうと予想されるなど大きな期待を寄せられていた。しかし10歳までの治勲は怠け者であり修行に身が入らなかった。木谷道場の方針も強制的には勉強させないというものだったためより不勉強になってしまった。そのため毎回入段手合の準予選の段階で落ちていた。周囲の落胆は大きく治勲は早くもタダの人かといった批判が広まった。
学校は東京韓国学院という在日韓国人の子弟のための教育施設に通った。入学した途端、典型的な落ちこぼれになり小学1年から登校拒否になった。道場から出ると兄の祥衍の住むアパートで暇を潰していた。土曜日だけは授業が半日だったのでずっと無遅刻・無欠席を通した。しかし学校の教師からも見放されており、運動会にも遠足にも1回も参加しなかった。中学を卒業した後、高校にも1,2か月在学したが退学した。
入段に失敗し続けてたある日、2番目の姉から呼び出され「治勲ちゃん、どうする?いくらやっても毎年入段がダメなら、それはそれでしかたがないから、姉さんといっしょに韓国に帰りましょう。いつまで日本にいても、しょうがないものね」と言い涙した。それを見た治勲は無性に悲しくなりまた姉を悲しませた自分が無性に腹立たしくなってきた。そしてしっかり勉強して来年入段できなかったら韓国に帰ると約束した。この時もし韓国に帰ることとなったらみっともなさのあまり死を覚悟したという。それからはよく勉強した。
1968年に11歳9か月で入段手合の準予選に上がり予選を勝ち、そのまま本戦も通過して入段した (当時の入段最年少記録)。入段してからは碁を打つことが生きがいとなった。同年二段に昇段。1969年 三段に昇段。1970年 四段に昇段。
治勲が13歳の時、兄弟子の石田芳夫(現・二十四世本因坊秀芳)が22歳の史上最年少で本因坊位を獲得する。この頃石田に続けて何局か先で打ってもらい、その時の後の印象が今でも鮮明に記憶に焼き付いている。
1971年、15歳で五段に昇段。
1973年、新鋭トーナメント戦に優勝し、初タイトル。大手合33連勝を記録。六段に昇段。
1974年に木谷道場が四谷から神奈川の平塚に移った。その際、年長の弟子はみな独立したため治勲が一番の兄弟子となった。この時一緒に移ったのは信田成仁(現六段)と園田泰隆(現九段)の2人。
1975年、12年間の内弟子生活から独立。この年、日本棋院選手権(天元戦の前身)の挑戦者となった。相手は坂田栄男九段(現・二十三世本因坊栄寿)5番勝負で第1局・第2局を勝ちきりあと1番勝てば優勝というところで韓国からも新聞社の取材班がドッと押し寄せた。あと1勝というところでそれまで張り詰めていた気持ちがわずかにゆるみ2連敗。最終局でもう負けようのない形勢になるも最後のヨセでポカをし逆転負けを喰らった。この敗戦でいままで自分の強さだけしか見えなかったものが、急に相手の強さと自分の弱さが見えるようになった。
プロ十傑戦に優勝し、初の公式タイトル獲得とともに、タイトル獲得の当時最年少記録となる。七段に昇段。
1976年に 第24期王座戦で兄弟子・大竹英雄と対局。2-1で破り20歳5か月で王座獲得 (当時の七大タイトル獲得最年少記録)。名人リーグ入り。1977年 結婚、のちに一男一女をもうける。1978年 八段に昇段。1979年 本因坊リーグ入り。第4期碁聖戦で大竹英雄九段を3-0で破り碁聖位を奪取。
1980年、第5期名人戦で大竹英雄名人を4-1(1無勝負)で破り名人位を奪取。韓国に帰国し銀冠文化勲章を受章。
1981年に4月九段に昇段。第36期本因坊戦で兄弟子の武宮正樹本因坊を4-2で破り本因坊位を奪取。史上4人目の名人本因坊となる。第6期名人戦で兄弟子の加藤正夫九段を4-0で破り名人位防衛。
1982年、第7期名人戦で大竹英雄九段を4-1で破り防衛。第37期本因坊戦で弟弟子のライバル・小林光一九段を4-2で破り防衛。第20期十段戦で大竹英雄九段を3-1で破り十段位を奪取。鶴聖、十段、本因坊、名人の四冠を制す。
1983年は第7期棋聖戦で藤沢秀行に挑戦し、3連敗後の4連勝で棋聖位を獲得。大三冠を達成し、棋聖位はその後3連覇。第8期名人戦で大竹英雄九段を4-1で破り防衛。千葉市に移住。第30回NHK杯優勝。
1984年、第9期名人戦で大竹英雄挑戦者を3連敗後4連勝で破り防衛。名人位5連覇、名人戦史上初の名誉名人の資格を得る。賞金ランキング1位。第3期NECカップ優勝。第8期棋聖戦で林海峯九段を4-2で破り防衛。
1985年は第9期棋聖戦で武宮正樹九段を4-3で破り防衛。第4期NECカップ優勝。
1986年1月6日、交通事故で全治3か月の重傷を負う。車椅子での対局となった棋聖戦で小林光一に棋聖位を奪われ無冠になるが、8月の第11期碁聖戦で大竹英雄九段を3-0で破り碁聖位を奪取。
1987年、第13期天元戦で小林光一天元を3-2で破り天元位を獲得し、史上初のグランドスラム(生涯七大タイトル制覇)を達成。1988年 第14期天元戦で苑田勇一九段を3-2で破り防衛。第26期十段戦で加藤正夫九段を3-2で破り十段位を奪取。
1989年、第44期本因坊戦で武宮正樹本因坊を4-0で破り本因坊位を奪取。第27期十段戦で林海峯九段を3-0で破り十段位を防衛。1990年第45期本因坊戦で小林光一九段を4-3で破り防衛。1991年 第46期本因坊戦で小林光一九段を4-2で破り防衛。第1回竜星戦優勝。世界囲碁選手権富士通杯で、決勝で中国の銭宇平九段に不戦勝し優勝。この頃より内弟子をとりはじめる。
1992年に第47期本因坊戦で小林光一九段を4-3で破り防衛。第39回NHK杯優勝。1993年は第48期本因坊戦で山城宏九段を4-1で破り防衛。本因坊位5連覇、25世本因坊の資格を得る。第3回竜星戦優勝。
1994年、第18期棋聖戦で小林光一から棋聖位を奪還。翌1995年に弟弟子の小林覚に棋聖位を奪われるも、翌々年の1996年に再び奪還 (以後4連覇)。第49期本因坊戦で片岡聡九段を4-3で破り防衛。第42期王座戦で加藤正夫九段を3-2で破り王座位を奪取。賞金ランキングで10年ぶりに1位輝く。
1995年は第50期本因坊戦で加藤正夫九段を4-1で破り防衛。賞金ランキング1位。
1996年は第20期棋聖戦で小林覚棋聖を4-3で破り棋聖位を奪取。第21期名人戦で武宮正樹名人を4-1で破り名人位を奪取。賞金ランキング1位。 11年ぶりに名人奪取 (以後4連覇)。二度目の大三冠を達成し、翌年も保持。第51期本因坊戦で柳時熏七段を4-2で破り防衛。第43回NHK杯優勝。賞金ランキング1位。
1997年、第21期棋聖戦で武宮正樹九段を4-3で破り防衛。第22期名人戦で小林光一九段を4-2で破り防衛。第52期本因坊戦で加藤正夫九段を4-0で破り防衛。
1998年の第53期本因坊戦で王立誠九段を4-2で破り防衛。本因坊位10連覇。第22期棋聖戦で依田紀基九段を4-2で破り防衛。第23期名人戦で王立誠九段を4-2、1無勝負で破り防衛。賞金ランキング1位。
1999年の第24期名人戦で依田紀基九段を4-1で破り防衛。名人位四連覇。第23期棋聖戦で小林光一九段を4-2で破り防衛。賞金ランキング6年連続1位。2000年 第19期NEC杯優勝。
2001年の第49期王座戦で王立誠九段を3-0で破り王座位を奪取。第20期NEC杯、早碁選手権戦優勝。
2002年に名人戦挑戦。第35回早碁選手権戦、第9期阿含・桐山杯優勝。タイトル獲得65となり二十三世本因坊栄寿を抜きタイトル獲得数史上1位。
2003年、韓国の朴永訓九段に2-1で勝利し第8回三星火災杯世界オープン戦優勝。国際棋戦で12年ぶりの優勝。
2004年の第2回JALスーパー早碁優勝。
2005年には48歳7か月 (史上最年少)、入段から36年9か月 (史上最速)で史上3人目の通算1200勝を達成。同年、第43期十段戦で四連覇中の王立誠から十段位を奪還。
2006年の第44期十段戦で山下敬吾棋聖を相手に十段位を防衛。2007年 NHK杯囲碁トーナメントで11年ぶりに優勝、通算70個目のタイトル獲得。さらに同年4月第45期十段戦で山下敬吾棋聖王座を3-2で破り防衛。3連覇し、タイトル獲得数を71へ更新。阿含・桐山杯準優勝。
2008年に51歳11か月 (史上最年少)、入段から40年2か月 (史上最速)で史上2人目の通算1300勝達成。第32期棋聖戦挑戦者。NHK杯準優勝。
2010年の王座戦予選Aで林漢傑に勝利し、入段から公式戦通算1364勝 (729敗3ジゴ4無勝負)を挙げ、林海峰を抜いて勝数史上1位となる。阿含・桐山杯準優勝。
2011年、第1回囲碁マスターズカップ決勝でライバル小林光一九段に勝利し優勝。タイトル獲得数72となる。
2012年のNEC杯準優勝。囲碁マスターズカップ準優勝。9月27日、史上初めての公式戦通算1400勝を達成。
2014年の第4回囲碁マスターズカップ決勝で小林覚九段に勝利し優勝。タイトル獲得数73となり、2015年の第5回囲碁マスターズカップ決勝で武宮正樹九段に勝利し優勝。タイトル獲得数74となる。
2016年 6月20日に満60歳の誕生日を迎え、名誉名人を名乗ることになる。11月 人工知能の「DeepZenGo」と対決。第2局は負けたものの、第1局・第3局で勝ち越した。5年ぶりに賞金ランクで10位以内に入る(8位)。
2017年4月27日に史上初の公式戦通算1500勝を達成。11月20日、韓国棋院総裁杯シニア囲碁リーグでMVPを獲得。
2018年、第5期大舟杯シニア最強者戦優勝。一方、この年の公式戦成績は14勝16敗に終わり、入段51年目で初の負け越しとなった。
2019年5月20日、紫綬褒章を受章。
2023年、第2回テイケイ杯レジェンド戦で優勝。タイトル獲得数76となる。
国内棋戦 色付きは現在在位。
他の棋士との比較は、囲碁のタイトル在位者一覧 を参照。
国際棋戦
序盤は徹底的に実利を稼ぎ、その後相手の模様に入ってシノギ勝負に持ち込む実利派。
読みの鋭さは随一であり、普通なら侵入不可能とされる相手模様でシノいだり、到底攻めの対象とならない石の壁をもぎ取ったりするなど、大一番に真価を発揮する。
極めて勝負にこだわる性格で、常に最強の手を打とうとする。非常な長考派として知られるが、同時に早碁でも多くの優勝歴を持つ。
棋書
太字は打碁集。
ひと目シリーズ (毎日コミュニケーションズ)
その他
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