植原・笹川事件(うえはら・ささがわじけん)は、1920 - 1921年(大正9 - 10年)に明治大学で発生した学校騒動・学園紛争である。
1920年(大正9年)12月1日、明治大学で学生大会が開催され、学長木下友三郎と学監田島義方の退陣を勧告する決議を行った。この運動の中心を担ったのは大学令による学部昇格を見送られた政治学科の学生たちで、その背景には法学重視の講座配置や合併授業の多さに対する不満があった。大学当局はこれに対して学生リーダー8名を放校処分とし、さらに12月10日、学生たちを扇動した廉で植原悦二郎・笹川臨風両教授を解職した。
学生たちは両教授の復職と放校処分の撤回を強く要求した。結局、大学当局は両教授の復職を認め、被処分学生も復学した。学生側も木下学長と田島学監の退陣要求を撤回した。
しかし1921年(大正10年)4月28日、文部省は笹川の復職のみを認め、植原については復職を認めなかった(笹川も復職を辞退)。争いは学生対大学当局から学生対文部省へと変質していった。
結局、木下学長以下首脳陣4名は引責辞任し(後任の学長は富谷鉎太郎)、植原の復職も実現せず、明治大学を舞台にした勝者なき大学紛争は幕を下ろした。
この事件の十数年後、当時の木下友三郎学長は植原に「はなはだ相すまないことをした」と言って謝罪したという。
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